MINMIのオリジナルアルバム初期3タイトルのデラックスエディションが、7月3日にリイシューされた。
今回再発された各作品は、全楽曲に最新デジタルリマスタリングが施され、未収録シングルやインスト(オリジナルカラオケ)音源などがボーナスCDとして付属している。さらに、Blu-rayにはMVや貴重なライブ映像が収録されており、2000年代前半、ジャパニーズレゲエが瞬く間にJ-POPシーンを席巻していった勢いをこの3作品から感じ取ることができる。
そんなジャパニーズレゲエ/J-POPを代表する名盤3作品は、どのようにして生まれたのか、MINMI自身に話を訊いた。 *Mikiki編集部
デビュー時の苦悩、ファーストアルバムで起こしたミラクル
――このタイミングで初期のアルバム3作品のデラックスエディション盤がリリースされることになった経緯から教えてください。
「デビュー当時に所属していたビクターさんから、アルバムをリマスタリングしてリリースしませんかっていうお話を頂いたのがきっかけです。今回はとにかくマスタリングエンジニアさんが素晴らしくて。当時アナログでレコーディングやミックスをしてましたけど、音の解像度は今よりずっと低かったんです。けどデジタルの進化があって、今回当時の音がより鮮明に再現されていて。聴いた方からも音がすごく良くなったっていう感想をもらっているので、オリジナルを持っている方にもぜひ聴いていただきたいです。特典もたくさんありますし(笑)」
――アーティストによっては昔の作品を聴くのは恥ずかしいとおっしゃる方もいらっしゃいますが、その点MINMIさんはどうですか?
「もちろん当時の自分のボーカルのクオリティ、レベルっていうのは恥ずかしい部分もあります。ただ、昔の自分は私にとってライバルのようでもあって、その時なりの表現に今の自分がすごく影響を受けていたりもします」
――当時の自分をライバルと思っているというお話はすごく興味深いです。具体的にどの点をライバル視しているのですか?
「今とは考え方も全然違うし、若さなりの頑張りだったんだけど、でもどんな時でも自分は本当にベストを尽くしていて。歌手になりたい、歌手デビューしたいと思って活動して、その夢が叶ってファーストアルバム、セカンドアルバムと取り組んでいったけど、自分が思っていた以上にその時はハードだったんですね。技量とかキャパシティが当時の私にはなかったんです。
だから背伸びしてでも一生懸命やるしかないみたいなところで、初期のアルバムは本当にもがきながら作った作品なんです。なので、その時の自分に負けないくらい今もがむしゃらに頑張りたいなっていう、そういう意味での〈ライバル〉ですね」
――そんなハードな状況の中で制作されたデビューシングル“The Perfect Vision”が50万枚を超える大ヒットとなります。そのような状況を当時はどのように受け止めていましたか?
「人生をかけて音楽をやろうと決意してからデビューのお話をいただくまでに8~9年かかったし、インディーズで活動していた時代も長かったので、〈満を持して感〉が自分の中にはすごくあって。日本全国で聴いていただけるものを作りたいってずっと思っていて、メジャーデビューしたことでやっとその目標にトライできる機会を得たと思っていたので、すごく気合いが入っていたし、作った時から自分の中では手応えを感じていました」
――ヒットもある程度想定内だったと。
「自分ができる範囲内で、ヒットソングと言われるようなものを狙って作ったっていうとすごくいやらしく聞こえるかもしれないけど、そういう感じはありました。今ではヒップホップやレゲエに影響を受けたポップスって珍しいものではないけど、当時はそういうものがまだすごく少なかったんですね。だからレゲエやヒップホップ、クラブシーンの中で自分が切磋琢磨してきた経験をJ-POPの中で表現したいなと思っていたし、それができたと思う。あの頃(インディーズ時代)の経験はメジャーで活動する上で確実に糧となってますね。
あと、ファンのみんなもまだアンダーグラウンドだった当時のシーンの中でどんどん育っている時期でもあって。横浜レゲエ祭もハイエストマウンテンもすごく盛り上がっていたし、タイミングが上手くハマったっていうのも大きかったと思います」
――2枚のシングルをリリースしたのち、2003年3月にデビューアルバム『Miracle』がリリースされます。1ヶ月で作ったアルバムだそうですね。
「2002年8月にデビューして、ずっと全国をプロモーションでまわっている間に、次のシングルを12月に出すことになって、セカンドシングル“T.T.T.”とミュージックビデオを作りました。そうしたら〈アルバムを出すので来月の終わりまでに15曲くらい出してください〉って言われて、一体どの時間を使って私は作るの?という感じでした」
――しかもデビューアルバムにしてセルフプロデュースですよね。
「東京に行ったらすごいプロデューサーさんにきっと会えるんだろうなと思っていたんですよ。色々教えてもらいながらメジャーデビューしていくのかなと思っていたら、楽曲の制作もMVの方向性を考えるのも、基本自分という状況になっていて。それってアーティストとしてものすごい評価していただいているわけだし、信頼してくださっているってことなんですけど、私の器がまだそこまで大きくなかったんですよね。いくらインディーズでのキャリアがあったとはいえ、特別明確なビジョンがないまま、メジャーというフィールドに駆り出されてしまった感じでした」
――けど、それをなんとか乗り越えたわけですよね。
「乗り越えたというか、私が答えを出さなきゃ進まないから〈これです!〉〈こうします!〉って一つ一つ決断していったというか。もう、全部そんな感じでしたね。
先程も話したように、当時はまだレゲエとかヒップホップのカルチャーがJ-POPのシーンに落とされていない時代だったので、たとえばMVを作るにしてもブラックミュージックの解釈のMVってどうしたらいいんだろうって、みんな答えを持っていなくて。だから私が最初にこうしたいと言って、それを作るみたいな感じだったんです。
今だったらそういう音楽を聴いて育った方がクリエイターになられていて、共通言語を持ってクリエイティブできると思うんですけど、当時のJ- POPのシーンにおいては、そういうものはまだまだマニアックだったんだと思います」
――そんなハードスケジュールで作ったアルバムで、印象的な曲は?
「“Miracle”ですね。先程のエピソードでもあったように、1ヶ月でアルバムを作るってことを最初は受け入れられなかったんです。1曲に何ヶ月もかけている私が、1ヶ月で何十曲も作るなんて無理!って思いつつ、そんなことも言えない状況だったので。もうミラクルを起こすしかないと思って作った曲なんです。あと、私の父が当時病気で余命いくばくもないみたいな状況だったというのもあって、もうミラクルを起こしてもらうしかない!っていう思いもありました。
あともう一つ、本当にミラクルとしか言いようがないエピソードがあって。この曲はジャマイカで制作したんですけど、当時はまだ音楽をデータで送るような時代ではなくて、テープで録音して、それを抱えてマスタリングのためにニューヨークに向かうみたいな、そういうアナログな時代だったんですね。
それで、“Miracle”を録音したテープを持って帰ってきたら、なぜか音源がない状態だったんです。どうやら当時のテープって赤外線かなにかを通すとデータに損傷が出てしまう場合があるそうで、それを知らずに空港のセキュリティを通ってしまったみたいで。それで最終的にジャマイカのスタジオでリスニングチェック用に録音したCDの音をそのまま打ち込んだんです。もう方法がそれしかなくて......。今だったら絶対しないですけど、そういう荒手のやり方で“Miracle”っていう曲ができたんです」
――なるほど、アルバムタイトルも『Miracle』以外考えられないですね。実際にミラクルが起きてアルバムも大ヒットして。
「そうですね。すごく思い入れの強い1枚です」