痛々しいぐらいに、純粋に音楽と向き合っている、彼という人がいま、なお。

 新しいものには、それを新しいと感じさせるだけの旧さがある。でなければ、未だ得体の知れないものが、新しいというふうに認識されることはない。それなりのコンテクストとマップ、ヒストリーとジオグラフィー、知覚の方法が感受者に備わっていなければ無理なはずだ。作曲家も演奏家も、聴き手もまた、新たなものを経験するたびに見取りを更新していくことになる。

 「練習なんかつらいことしかないから、発見している時間、それがいちばん大事」。そう明かす演奏家にとって、直近に書かれた新作であれ、古典派やロマン派、近代のレパートリーであれ、作品世界の発見の喜びは大きくは変わらないはずだ。では、同時代の作者と直接の交流をもつことは、演奏解釈にどのような差異をもたらすだろうか?

 「取り組みかたとしては、時代はあまり関係ないです。僕にとっては、新作ということが、いつもとは違う。多くの作品にはいわゆるスタンダードと呼ばれる演奏があって、その大半は20世紀の後半に作られたものだと思うのだけど、それが音楽の本質とはまったく関係がなかったり、むしろかけ離れていることもある。わかっていたとしてもそこから、弾き手も聴き手も逃れられないことがあります。そういう〈手垢〉のようなものと、ときに闘いながら、どの曲も新作のように取り組みたい。今回は文字通りの新作だから、その意味ではとてもフェアな状態で始められる。誰も聴いたことがない、自分も聴いたことがない。あとはどんな曲でも、僕は作品よりも作曲家のほう、たとえばなぜこの人がこの曲を創らなければならなかったのかとか、そういうことに興味がある。そこを探したいとつねに思う」。

 ロンドン生まれのヴァイオリニスト、アーヴィン・アルディッティが、彼のソリッドな方法と多彩なコラボレーションで、同時代の音楽にひらいてきた展望は、活動全体が新旧のうねりを織りなすダイナモとしての傑出した機能を果たし続けている。アルディッティ弦楽四重奏団が創立50周年を迎えた今年は、なかなかレパートリーに恵まれないピアノ五重奏の分野にも新たな展望をもたらす。北村朋幹を招き、長年の友人たる細川俊夫、イルダ・パレデスの新作を世に問うのだ。

 さて、サントリーホール サマーフェスティバルはこの夏、アーヴィン・アルディッティにプロデューサーを託し、オーケストラ・プログラムと3つの室内楽コンサートを〈ひらく〉。後者のシリーズでは、アルディッティ弦楽四重奏団への献呈作の端緒となったハーヴェイ、クセナキス、ファーニホウ、ラッヘンマン、カーター、レイノルズ、西村朗、クラーク、そして坂田直樹のサントリーホール委嘱新作、武満徹の“ア・ウェイ・アローン”を展望。さらに北村朋幹とともに、細川俊夫の“Oreksis(オレクシス)”を日本初演、イルダ・パレデスの“Sobre diálogos apócrifos”を世界初演する。

 アーヴィン・アルディッティは、細川俊夫とは1980年代初期のダルムシュタット夏期講習会以来の友人、パレデスはメキシコ生まれの作曲家で30年を超える深い交友を重ねてきた。「彼女の新作は、細川の五重奏曲と大きなコントラストをもつだろう」と彼は述べていたが、内部奏法を含むピアノ・パートを試奏した北村朋幹も「2つの作品があまりにかけ離れている。書きかたが、ほんとうに真逆」と言う。

 「細川さんの楽譜にはいつも、既に美しい世界が内包されているけれど、その上でどこか、誰かに表現されることを待っているような、あるいは誰かが表現することを許すようなところがある気がする。イルダさんの曲に関して言うと、完全にアルディッティ・クァルテットへのあて書きだと思うんですね。だから、彼らのあの独特な演奏法に従ってやっていけば、たった一歩で作曲者の理想が叶えられるかもしれない。簡単に答えを出すやりかたというか。いまのところ、それしか方法が思いついていないのだけど、それでなにができるかやってみるというのも、僕にとってはひとつの挑戦ではある。こういったやりかたをふだん僕は絶対にしないからこそ」。