芥川也寸志生誕100年
「音楽はみんなのもの」を体現した大作曲家

 2025年は戦後日本を代表する作曲家、芥川也寸志(1925〜1989年)の生誕100年。管弦楽曲から合唱曲、映画音楽、さらには学校や団体の校歌まで広範な分野に多大なる足跡を残した芥川だが、亡くなってから36年が経過し、忘れ去られている側面が少なからずあるのも実情だ。芥川也寸志の生涯と功績を改めて振り返る。

 芥川也寸志の音楽の記憶として、僕の中で最も記憶に残っているのが映画音楽である。1979年生まれの僕はリアルタイムで芥川の音楽を聴いた世代ではないものの、野村芳太郎監督の名作映画をよく見ていたため、自然と芥川の音楽に触れた。

 とりわけ、芥川が音楽監督を務めた「砂の器」(1974年、作曲は菅野光亮)と作曲を担当した「八つ墓村」(1977年)のダイナミックにして哀愁を誘うような素晴らしい音楽は、脳裏に刻まれていた。美しいメロディとハーモニー、そしてそれらがもたらす甘美さと儚さが、ミステリー系の作品にものすごく合う。

 もう一つ、芥川也寸志と言えば〈テレビによく出ている作曲家〉だった。芥川は團伊玖磨、黛敏郎という同年代の作曲家とともに〈3人の会〉を結成して精力的に活動していた。特に芥川と黛はテレビ出演が多く、幼かった僕の記憶にも強く印象づけられている。

 なぜ芥川也寸志はこれほどマルチな能力を身につけたのか。その大きな一つの要因は、やはり父である大作家・芥川龍之介の存在であろう。龍之介は三男である也寸志が2歳の時に自殺した。也寸志自身は「ほとんど父との記憶がない」というが、龍之介は自宅に多数のレコードを残した。也寸志はストラヴィンスキー『火の鳥』『ペトルーシュカ』などのレコードを、幼少時から自然と聴いていた。

 もう一つが東京音楽学校(現・東京藝術大学)に入学した後、戦争中に〈陸軍戸山学校軍楽隊〉に入隊したことだ。軍楽隊に入れば音楽が〈重要任務〉となり、戦争の前線に行かなくて済む。存分に作曲、編曲、管弦楽法などの勉強を続けられた。軍楽隊には、後に多くの吹奏楽の名曲を書いた奥村一、小津安二郎作品の音楽で知られる斎藤高順、そして盟友である團伊玖磨がいた。東京音楽学校に復学後には生涯の師となる伊福部昭から教えを受け、軍楽隊での経験が大いに花開いた。

 芥川也寸志の名言として、よく「音楽はみんなのもの」という言葉が挙げられる。生粋の江戸っ子で芥川龍之介の三男といえば裕福なイメージがあるが、龍之介の自殺以降、芥川家の家計は火の車状態だった。苦しい生活を乗り越えたからこそ、音楽は暮らしが密接に結びついていることを実感してきたのだろう。

 〈音楽というものは、生活のなかにとり入れるものではなく、生活のなかから、ひきだすものであると考えております。〉(芥川也寸志「私の音楽談義」〈ちくま文庫〉より)

 芥川の音楽は、「音楽はみんなのもの」を自ら体現するかのように広範囲にわたった。管弦楽曲では交響管絃楽のための前奏曲(1947年)、交響三章(トリニタ・シンフォニカ)(1948年)、交響管絃楽のための音楽(1950年)、絃楽のための三楽章(トリプティーク)(1953年)、交響曲第1番(1954年)など、特に若い頃の作品は西洋音楽に日本的な要素を掛け合わせた美しい楽曲が多い。

 そのほか、子供のための交響曲“双子の星”(1957年)、インドの建築や哲学から着想したエローラ交響曲(1958年)などもよく知られている。その後は短いフレーズを繰り返す〈オスティナート〉という手法を取り入れ、“チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート”(1969年)などの作品を残した。

 管弦楽曲の他にも室内楽や合唱曲、学校の校歌や会社の社歌など、音楽を必要とする人の依頼は気兼ねなく受けた。だが、そんな芥川だからこそ超多忙な生活が続き、自身の命をすり減らしてしまった面はあったかもしれない。

 生誕100年にあたる2025年は、例年よりも遙かに多い芥川作品がオーケストラなどによって演奏されている。芥川也寸志という作曲家の残した素晴らしい音楽の数々を堪能できる、またとない好機と言えるだろう。