夢うつつの世界
ヘザーいわく「人生初めての女性との恋」について綴った“Last Train Home”はまさしく、自己を確立する前、自分のセクシャリティーに戸惑っていた時期の葛藤を浮き彫りにしているが、デビューから間もなくして正式に同性愛者としてカムアウトしていた彼女は、ここにきて〈You〉ではなく〈She〉や〈Her〉という女性形の代名詞を歌詞に積極的に用いるようになった。そこも従来の作品との大きな違いであり、“Perfume”然り、“Miss America”然り、“Seeing Stars”然り、女性同士の恋愛を描いていることを明確にした形だ。ファンに広く愛されている“She’s My Religion”(セカンド・アルバム『Who Am I?』収録)などの前例もあるが、「ジェンダーをはっきりさせることでクィア・コミュニティ全体にポジティヴな影響を与えられるし、今回は意図的に実践したの」とヘザー。昨今、レーベルメイトのジャパニーズ・ハウスやガール・イン・レッドといったインディー・アクトから、先頃“LUNCH”を大ヒットさせたビリー・アイリッシュ、あるいは時の人チャペル・ローンの例を挙げるまでもなく、同様に女性同士の恋愛をオープンに歌うアーティストが増えていることにも、大いに勇気付けられるという。
「レネー・ラップとかもそうだし、いまクィア・アーティストの巨大な波が押し寄せていて、みんなメインストリームで活躍しているってことにも驚かされるよね。彼女たちはクィアな曲を途方もなく大勢の人に向けて歌っていて、ライヴではストレートの人たちも合唱しているわけだから、時代が進化したなってつくづく思う。私が若い頃はお手本にできる人が誰もいなくて、“She’s My Religion”で大きな一歩を踏み出した。あれを世に出すときはかなりナーヴァスになったっけ。あんなにクィアな曲って滅多にないから(笑)。でもバンドの代表曲のひとつになったし、リリースする価値はあったよね」。
ちなみに、“She’s My Religion”をインスパイアしたのは、現在もガールフレンドであるケルシー・ラック。ブリティッシュかつヨーロピアンな音楽性と呼応する、英国の庭園や野山を想起させる深いグリーンに包まれた本作のヴィジュアル制作を、ヘザーと主導したフォトグラファー兼ミュージシャンだ。
「ケルシーと一緒に『Smitten』の世界をヴィジュアルで表現するべく、数か月を費やしてアイデアを集めてイメージボードを用意したんだけど、あとで見直してみたら、見事なまでにアートワークと一致していた。思い描いていた世界をそっくりヴィジュアル化できたのは今回が初めてだったな。野原でシャンデリアを見上げる姿をジャケットにするというイメージも早くから考えていたことなんだけど、英国の田舎にある野原の真ん中で、空からシャンデリアを吊り下げるっていう無茶なアイデアをなんとか実現できたし、想像以上に素敵に仕上がった。とにかく、曲のクォリティーにおいても、演奏においても、ヴィジュアルの面でも、これまででいちばんの出来だと感じているし、もっとも成熟したアルバムが生まれた気がする。バンドの最高傑作だなって」。
エンディングにもまた、そんな高い美意識に貫かれたアルバムに相応しい、粋な展開が待ち受けている。というのもラスト・ソングの“Slow”を締め括るのは、〈Am I Dreaming?(私は夢を見ているのかな?)〉というクエスチョン。まるですべてが夢の中で起きていたかのような、そして、アルバムを聴き終えた瞬間にふと目が覚めたかのような不思議な気分にさせてくれる。「このアルバムにはすごく浮世離れしたところがあって、夢見心地にさせてくれる作品だと思う。エアリーでマジカルで、宙をフワフワと漂っている気分になるでしょ?」とヘザーは言う。夢なのだとしたら覚めたくない、聴き手も〈深くのめり込まずにいられない(Smitten)〉夢うつつの世界が、本作にはどこまでも広がっている。
本文中に登場するアーティストの作品を紹介。
左から、クランベリーズの96年作のデラックス盤『To The Faithful Departed(Deluxe Remaster)』(Island)、サンデイズの90年作『Reading, Writing And Arithmetic』(Rough Trade)、レネー・ラップの2023年作『Snow Angel』(Interscope)