©Tyler Kenny

10代の不安や孤独を嘘のない言葉で歌ったロック・プリンセスに、世界中の少年少女が虜になった。アヴリル・ラヴィーンみたいになれたらいいのに――いまも若者たちから憧れの声が止まない彼女のベスト盤が登場。恋愛や病気……己の現在地を表現し続けてきたシンガーの歩みを振り返る

 アヴリル・ラヴィーンが先日リリースした『Greatest Hits』。本作が彼女にとって初めてのベスト盤だと聞いて、意外に感じる人は少なくないのではないかと思う。何しろアヴリルは言うまでもなく、カナダ音楽界が生んだ最大のスターの一人。放ってきたヒット曲は枚挙に暇がなく、ベスト盤の1枚や2枚は埋められる。なのにデビュー22年目にしてようやくキャリアを総括しようというのは、一貫して独自の道を淡々と歩んできた彼女らしい展開であり、昨今、00年代初頭にギター・ロックを志向していた数少ない女性アーティストとして再評価の声が高まっていたことを踏まえれば、結果的には申し分ないタイミングだと言うべきだろう。

AVRIL LAVIGNE 『Greatest Hits』 Arista/Legacy/ソニー(2024)

 

正直に生きたいと歌う姿

 そんなアヴリルがカナダのオンタリオ州で生まれたのは84年のこと。人口5千人ほどの小さな町ナパニーで子ども時代を過ごし、教会の聖歌隊で歌の楽しさに目覚め、まずはゴスペル、続いてカントリー・ミュージックに親しみ、ティーンエイジャーになると当時流行していたポップ・パンクに夢中になるという具合に、多様な音楽を吸収して育ったという。そしてミュージシャンに憧れて曲作りを始める一方、タレント・コンテストなどさまざまなイヴェントで歌を披露しているうちに音楽業界関係者の目に留まり、16歳にして大手レーベルのアリスタと契約。高校を中退してアメリカに拠点を移し、マトリックスやクリフ・マグネスと制作したファースト・アルバム『Let Go』を2002年に発表した。

 世代的にはいわゆるミレニアルに属する彼女だが、セクシーな衣装に身を包んで、R&Bやヒップホップに根差したポップ・ミュージックを踊りながら歌うという、当時のメインストリームを彩っていたテンプレートとは、デビュー当時から一線を画していた。初期の代表曲のひとつ“Sk8er Boi”のMVを通じて注目を浴びたファッションはいたってボーイッシュ、ギターを弾きながら自分を悩ませる不安感や孤独感を率直な言葉で分かち合う姿は、世界中で熱狂的な支持を獲得。音楽的にも、前述したポップ・パンク、グランジ~オルタナ、ヘヴィ・ロックやミクスチャー・ロック……と、90年代のロックのさまざまなスタイルを消化して等身大のポップな表現に落とし込み独自の色を打ち出した。そして、己に正直に生きたいという堅固な意志を映すデビュー・シングル“Complicated”のヒットにも押されて、『Let Go』は故郷のカナダで早速No.1を記録。全米チャートでは最高2位にランクインしたのち、世界合計で2千万枚を売り上げることになる。

 大ブレイクを受けて、カナダの2003年ジュノー賞で最優秀アルバム賞など4冠を達成し、第45回グラミー賞では新人賞と楽曲賞を含む5部門の候補に挙がったアヴリルは、さらに2年後、セカンド・アルバム『Under My Skin』(2004年)を全米チャートのトップに送り込む。ブッチ・ウォーカーに加えて、シンガー・ソングライターのシャンタール・クレヴィアジックとアワ・レディ・ピースのフロントマン=レイン・メイダというカナダ人のミュージシャン・カップルをコラボレーターに起用した同アルバムでは、ファーストのオーガニックなロック路線を引き継ぎながら、全般的によりダークなサウンドにシフト。人間関係にフォーカスし、しばしばメッセージ性を帯びた歌詞に成長の跡を刻んだ彼女だが、サード・アルバム『The Best Damn Thing』(2007年)では一転して、Drルークのようなメインストリームなプロデューサーから、当時結婚したばかりだったサム41のデリック・ウィブリーまで幅広い面々の手を借り、よりキャッチーなポップ・パンクを披露。満を持して初の全米No.1シングル(“Girlfriend”)も生まれた。

 ちなみに日本でもデビュー当初から絶大な人気を誇っていたアヴリルは、2003年5月には初来日公演にして日本武道館のステージに立ち、『The Best Damn Thing』までの3枚のアルバムは日本でも連続でミリオンセラーになるという、海外アーティストとしては後にも先にも例のない快挙を達成している。