米朝の歌声

 桂米朝がこの世をあとにしたのは2015年3月19日。翌日の新聞は、いずれも第一面にその訃報を掲載した。〈米朝の死〉は、落語界だけでなく、社会的に大きな意味を持っていたわけである。米朝は上方落語初の人間国宝であるというだけでなく、まさに上方落語界の大黒柱であった。

 現在の上方落語は天満天神繁昌亭という寄席もでき、人気者や実力者がひしめきあっていて、質量とも充実している。一例をあげるなら、日本中を家族と乾杯しながら歩いている笑福亭鶴瓶も、近年は落語家としての活動に重点を置いている。いまや、上方落語は空前の繁栄期と言ってもいいかもしれない。

 信じられないことかもしれないが、今から70年前、〈上方落語〉が地上から姿を消そうとしていた時期があった。戦前、戦中と〈漫才〉という新しい芸能の勢いに押されて寄席の片隅に追いやられていた上方落語は冬の時代を迎えていた。その上、なんとか伝統を後世に伝えようとがんばっていた五代目笑福亭松鶴、四代目桂米團治、二代目桂春団治といった師匠連が終戦直後の昭和二十年代後半にバタバタと世を去って行った。気の早いマスコミは〈上方落語はこれで滅んだ〉という記事を掲載するに至った。

 そのころ上方落語の世界に身を投じたのが桂米朝である。米朝はもともと研究家としての道を歩もうと志していたが、滅亡の危機に瀕している上方落語を目前にして、自ら実演者として上方落語のおもしろさを世に伝えることを決心した。

 米朝は、それまで関西地域限定のローカル芸だった〈上方落語〉に現代人の視点から再検討を加えて、わかりにくい言葉や風習などは解説を加え、ときには言葉を補って関西以外の全国に通用する芸能に進化させた。過去にいろんな芸人が存在したが、ひとつの芸のジャンルをよみがえらせた例は知らない……というのが桂米朝に対する公式の見解である。

 伝統芸能の偉大な存在を喪ったとき、よく耳にするフレーズが〈これで本物の芸は滅んだ〉というものである。これまでに、何度も〈江戸前の芸〉や〈古風な味わいの芸〉が姿を消したことになっている。いわば、70年ほど前に〈上方落語は滅んだ〉と報道したのと同じことである。ただ、米朝の場合に限っては〈これで上方落語は滅んだ〉という類の説は聞こえてこなかった。かえって〈上方落語は米朝によって永遠に残ることになった〉という評価が多かったように思う。

 確かに桂米朝の落語を生で聞くことはできなくなった。落語という芸能は高座の落語家と客席が一体となって作り上げる空間が生命であることは間違いない。そういう意味で米朝落語の〈空気〉を感じることはできなくなった。しかし、米朝は数多くの録音と映像を遺してくれた。

 後進の落語家にとっては何よりの道しるべである。これから何百年たったあとでも、〈上方落語〉という芸能が残っている限り、未来の落語家が迷ったとき、〈どこへ戻ったらいいのか〉という原点になる記録を遺してくれたのだ。

 もっとも、これはプロの落語家にとっての価値であり、一般の落語ファンの皆さんにとっては数多いおもしろい物語が、まさに際限なく取り出せる〈玉手箱〉のようなものなのである。