〈ノリ〉から〈グルーヴ〉へのパラダイム・シフトがあった90年代前半
与田「同世代のリミキサーの大半は、90年代のロックとダンスがクロスオーヴァーした時代を知っているし、仁さんが当時プロデュースした作品――フリッパーズ(・ギター)の『CAMERA TALK』(90年)や『DOCTOR HEAD'S WORLD TOWER -ヘッド博士の世界塔-』(91年)、Venus Peterの『SPACE DRIVER』(92年)でも、ロック・バンドがダンス・ビートを採り入れていたじゃないですか。今回はその当時の状況も話ができたら良いなと。仁さんがダンス・ミュージックに出会ったのはいつ頃なんですか?」
吉田「89年の夏かな。ロンドンに仕事の打ち合わせで行ったときに、ちょっと時間があったからベルリンにも寄ったのね。中心地のホテルを取ったら、こじんまりした結構良い感じのホテルだったんだけど、そこの1階が猥雑な雰囲気のクラブだったのよ。そこに行ったらテクノやアシッド・ハウスがすごくかかっていて、それで興味を持った。次の日にレコード屋へ行ったとき、ベルギーやフランスのレーベルから出ていたテクノのレコードを結構ジャケ買いして。自分はそういうところからダンスものに入っていったかな」
与田「沖野くんも89年にロンドンにいたんでしょ?」
沖野「うん。吉田さんがロンドン行ったときは、まだマッドチェスター/セカンド・サマー・オブ・ラヴの波はそんなに感じませんでした?」
吉田「うん。ニュー・オーダーがいるな、くらいの感じだった。そのあと90年頃にロンドンのクラブに行ったんだけど、すでに日本のGOLD※みたいなところを体験していたから、なんか文化祭レヴェルの内装だなと思って(笑)。ちょっとサイケデリックが入ったダンス・クラブみたいな、かなりアシッド感の強いところで、確かに客層もキメキメなんだけど、サイケデリックな内装もペイントの素人っぽさ、手作り感がすごくて。そこはなんか微笑ましかったね」
※89~95年に東京・芝浦で営業されていた巨大クラブ。音響からインテリアにいたるまで、世界最先端の技術が組み込まれていた
与田「日本はジュリアナがスタートする手前くらいの時期でしたしね。それで、仁さんにVenus Peterの『SPACE DRIVER』のプロデュースをお願いしましたが、“Life On Venus”や“Splendid Ocean Blue”は仁さんのプロデュースじゃないとできなかった曲だと思う。僕らが当時あれを聴いたときに〈日本人でもこんなことができるんだ〉という驚きがすごくあった。でもやっぱり早すぎたというか(笑)。あのときのシーンではそんなに伝わらなかったから、残念だったなという気持ちがあるんですよね」
沖野「でも、それはいまもだからね。ハハハ(苦笑)」
与田「たぶんフリッパーズの〈ヘッド博士〉あたりが、あの時代の日本でいちばん意識的にダンス・ミュージックを採り入れたポップスだったと思うんですけど。あれも仁さんのプロデュースでしたね」
吉田「(前作の)『CAMERA TALK』の“Big bad bingo”で、最初メンバーは打ち込みでやろうと考えていたんだけど、打ち込みだと感じが出ないと思って、僕がSalon Music用にいくつか作っていたブレイクビーツがあったから、それをそのまま使ったんだよね。その流れから、次の“LOVE TRAIN”にも取り掛かった。あれはさらにマンチェスターを意識したような」
与田「“LOVE TRAIN”はそうですね。(ストーン・ローゼズの)“Elephant Stone”ですもんね(笑)」
沖野「で、そのあとに“GROOVE TUBE”が登場した」
吉田「そうだね。当時は僕もバンドものよりハウスの12インチとかばっかり買っていた。僕のなかでミュージシャン側が変わったと思ったのは、それまでロック・バンドって〈ノリが合ってないな〉みたいな言い方でやっていたんだけど、90年代からは、みんなが〈グルーヴ〉や〈ヴァイブ〉と言うようになったんだよね。練習中やリハーサルのときでも〈なんかグルーヴが出ないな〉とか。だからノリという演奏する側の視点から、グルーヴという踊る人の視点に意識が変わったんだよね。それはすごく大きなことだなと思った」
沖野「うーん。でもなんかずっと〈どうやったらできるんだろう?〉と思い続けたんだよね。マッドチェスター周辺のダンス・ミュージックを採り入れていたバンドみたいな音楽をやりたかったんだけど、どうやっても日本でのやり方がわからないままだった。で、もう途中からは完全にクラブ・ミュージックに行っちゃったから。自分のなかでも中途半端に終わっている感じがすごくある」