ここに、Mikiki史上最長規模の約25,000字にして、特濃の内容となった(問題作とさえ呼べる)インタヴューを前後編の2回に分けて公開したい。この取材が実現した経緯――まず始めに、Mikikiが気になる現在の日本のインディー・アクト/シーンにフォーカスした連載として〈NEW URBANe POP〉がスタートし、その第9回に登場した新宿MARZ/人気DJパーティー〈New Action!〉の星原喜一郎が、新たなシーンのトレンドとして〈パンク〉というキーワードを教えてくれ、タイミングを前後してNOT WONKやCAR10など、新世代のパンキッシュなバンドたちが気になっていた編集部が、その周辺のバンドが集うレーベルのKiliKiliVillaに話を訊きに行った、という流れだ。
KiliKiliVillaは、GOING STEADYや銀杏BOYZのメンバーとして日本のロック・シーンで一時代を築きながらも、狂騒の果てに憔悴して一度はシーンから離れてしまった安孫子真哉が、若い世代が鳴らす新たなパンク・ロックの熱に触れ、ふたたびパンクのコミュニティーにカムバックしたことで生まれたレーベルだ。さらに、90年代の終わりにGOING STEADYを発掘し、それ以前はVenus PeterやBEYONDSなどが在籍した伝説的なレーベル=WONDER RELEASEを主宰するかたわら、セカンド・サマー・オブ・ラヴを体感したことでダンス・カルチャーにも深く関わってきた与田太郎と、安孫子と同時代を生きた元YOUNG PUNCHの福井隆史の2人が安孫子をバックアップする形でKiliKiliVillaに加わっている。
安孫子と与田が参加した以下のインタヴューでは、KiliKiliVillaや現行のパンク・シーンのトピックだけに留まらないさまざまな話題が飛び交った。冒頭で〈問題作〉としたのは、そのなかで前述の星原のインタヴュー記事に対する安孫子からの批判があったり、彼らが(結果的には)距離を置いていた日本の音楽メディアに対する違和感の表明も含んでいるからだ。けれどそういったリアクションはインタヴュー全編に溢れる安孫子真哉の音楽に対する底なしの愛、自分自身をも救ったパンク・ロックへの深い愛情ゆえの主張であり、気高いパンクのアティテュードをまとったKiliKiliVillaが2015年からの〈特別な2年間〉を牽引しそうな強い予感と希望に満ちた本記事のなかでは、ほんの些細な事柄に過ぎない。ただの音楽好き同士が腹を割って話し合った2時間のドキュメント、まずは安孫子の音楽遍歴からシーンへの帰還、そして与田の目から見た90年代のシーンとの相違点まで、貴重な発言満載の前編をご覧あれ!
僕は偏ってると思います。商業誌のなかのロック・シーンとかはほとんどわかってないし、〈売れないとしょうがない〉みたいなスタンスにはひいてしまうタチなので
――安孫子さん、モ・ワックスのTシャツ素敵ですね。そのへんの音楽も聴いてたんですか?
安孫子真哉「聴いてましたよ! 高校の修学旅行のときに、地元の山形から京都に行ったんですけど、パンク系のレコード屋さんだけでなくクラブ系のレコード屋も探したりして。モ・ワックスのレコードバッグも買って通学カバンにしてましたね」
――え~!
与田太郎「アビちゃんが高校2~3年ってことは、95~96年?」
――じゃあまだDJシャドウのファースト・アルバム(96年発表の『Endtroducing』)が出る前ですか?
安孫子「そうですね。山形の同級生に謎なヤツがいまして、毎週シスコから週2回レコードを注文してて。高校1年生のときそいつの家に遊びに行ったら、レコードが2,000枚くらいあるんです。考えてみればボンボンだったかもしれないです(笑)。兄貴ともレコードをシェアしてて、じいさんを騙したり(……以下自粛)」
――そんな荒っぽい手法でレコードを収集してる友達もいたと(笑)。安孫子さんは高校生の頃からパンクとそれ以外のジャンルの音楽を並行して聴いていたんですか?
安孫子「そうですね。中高の頃は夏休みとか長い休みの期間中に友達と遊ぶことが皆無で(笑)。友達がいないわけじゃなかったけど、誰と遊ぶでもなく部活から家に帰ってCDやレコードを聴くようなサイクルでした。パンクはイカ天に小学生の頃に触れて〈自分はロックが好きなんだな〉って気持ちを自覚したのから始まり、上京してパンクに目覚めた従兄弟からそういう音楽を教えてもらって、中2くらいからパンクにハマった。高校に入ったらニューウェイヴやテクノが好きなヤツと出会って、それで並行して聴いてましたね。でも当時1年間くらいはパンクを聴かずにクラブ・ミュージックばかりだったかも」
――すでにその当時パンクから離れた経験があったんですね。
安孫子「でも雑誌のDOLLはずっと買ってました。高1の最後くらいにはSnuffy Smileとかを中心にパンクもかなりチェックするようにはなってて。〈世の中では何が起こってるんだ!?〉ってものすごい衝撃を受けてましたね」
与田「94~96年って、ケミカル・ブラザーズがデビューした時期でもあるよね」
安孫子「ケミカル・ブラザーズなんて、“Leave Home”(95年発表のファースト・シングル)を2枚買いしましたもん」
与田「青いカラーのほうとモノクロのほう……」
安孫子「モノクロって何でしたっけ?」
与田「モノクロはアンダーワールドのリミックス。でもあの頃のブレイクビーツやヒップホップは2枚買いだったよね」
――安孫子さんがKiliKiliVillaのコンピレーション・アルバム『While We're Dead.:The First Year』に付属のファンジンに寄せたコラムのなかで、xxやジェイムズ・ブレイク、フライング・ロータスだったり、フェネスやラブラッドフォード、降神など、幅広いジャンルの音楽の話が出てきて意外だったんですが、いまのお話を聞いて納得しました。
安孫子「でも僕は偏ってると思いますよ。海外の音楽って、日本に住んでいると向こうでの立ち位置や、影響力とか人気の程度が実際のところはよくわからないので勝手な妄想で済ましているのですが、日本のバンドに対してはものすごく偏見があります(笑)。商業誌のなかのロック・シーンとかはほとんどわかってないですし、〈売れないとしょうがない〉みたいなスタンスにはひいてしまうタチなんです」
与田「それって伝統的な洋楽ファンの音楽の聴き方だよね」
安孫子「うん、そうだと思います」
――そんななかで安孫子さんが国内の身近なバンドで最初に興味を持ったのは誰ですか?
安孫子「小学生の頃の米米CLUBとかは置いといてって話ですよね(笑)? バンド・ブームがあって、洋楽の70sのパンクに目覚めて……同時進行で夢中になっていたバンドが山ほどいたので。やっぱりまだ見ぬパンク・シーンというもの全体に夢中になりましたね」
――安孫子さんが上京するのって何年頃ですか?
安孫子「19歳になる97年ですね」
――当時はもうGOING STEADYに加入してたんですか?
安孫子「上京して半年くらいでバンドが始まった感じですね。97年の夏頃かな」
――そこからはパンク・シーンにどっぷり?
安孫子「そうですね。あの頃……みたいな昔話的な言い方は本当にイヤだけど、いまよりもやっぱりバンドはたくさんいたしおもしろかったですね。平日でもイヴェントがいっぱいあったし。そこから2001~2002年くらいまでは週何回ライヴハウスにいたのかわからないくらいどっぷり浸かってました。渋谷GIG-ANTIC、西荻WATTS、下北沢SHELTERの3つには相当入り浸ってましたね。情報もいまみたいにウェブで収集できなかったから、誰かの作品のサンクス・リストに載ってた地方のバンドや、フライヤーでなんとなく名前を見たバンドだったりの情報を、地道に集めて。いろんなバンドが謎めいていてすごく活気があった気がします」
――その頃仲が良かったバンドってどのあたりの方々ですか?
安孫子「GOING STEADYの場合、僕らは基本的にパンクが好きだったけど、わりと早いタイミングで売れちゃったから、例えばSnuffy Smileのバンドなんかすごく好きでも交わりようがなくて。本当は僕個人的にはアングラなバンドのままで全然良かったんです。そういうシーンに参加できるだけで。そんなときに当時とても憧れてたアンダーグラウンドのパンク、ハードコア・バンドがたくさん出演してた〈SET YOU FREE〉っていうイヴェントをやってた千葉(智紹)さんという人と知り合いになって、そういうシーンのバンドと出会う取っ掛かりを作ってもらったんです」
――そのなかでも頻繁につるんでいた人たちはいましたか?
安孫子「結構万遍なく共演させてもらったのかな。いまの若いパンク好きの子に〈安孫子さんたちって昔どんな感じだったんですか?〉って訊かれたときに、例えば〈SPRAY PAINT※とも一緒にやらせてもらったことあるよ〉と話すと〈えっ~意外!〉みたいなリアクションされたり。銀杏BOYZの初期まではいろんなバンドと対バンしてたと思います」
※90年代後半から数年活動した新潟発の伝説的なメロディック・パンク・バンド