ここに、Mikiki史上最長規模の約25,000字にして、特濃の内容となった(問題作とさえ呼べる)インタヴューを前後編の2回に分けて公開したい。この取材が実現した経緯――まず始めに、Mikikiが気になる現在の日本のインディー・アクト/シーンにフォーカスした連載として〈NEW URBANe POP〉がスタートし、その第9回に登場した新宿MARZ/人気DJパーティー〈New Action!〉の星原喜一郎が、新たなシーンのトレンドとして〈パンク〉というキーワードを教えてくれ、タイミングを前後してNOT WONKやCAR10など、新世代のパンキッシュなバンドたちが気になっていた編集部が、その周辺のバンドが集うレーベルのKiliKiliVillaに話を訊きに行った、という流れだ。

KiliKiliVillaは、GOING STEADYや銀杏BOYZのメンバーとして日本のロック・シーンで一時代を築きながらも、狂騒の果てに憔悴して一度はシーンから離れてしまった安孫子真哉が、若い世代が鳴らす新たなパンク・ロックの熱に触れ、ふたたびパンクのコミュニティーにカムバックしたことで生まれたレーベルだ。さらに、90年代の終わりにGOING STEADYを発掘し、それ以前はVenus PeterやBEYONDSなどが在籍した伝説的なレーベル=WONDER RELEASEを主宰するかたわら、セカンド・サマー・オブ・ラヴを体感したことでダンス・カルチャーにも深く関わってきた与田太郎と、安孫子と同時代を生きた元YOUNG PUNCHの福井隆史の2人が安孫子をバックアップする形でKiliKiliVillaに加わっている。

安孫子と与田が参加した以下のインタヴューでは、KiliKiliVillaや現行のパンク・シーンのトピックだけに留まらないさまざまな話題が飛び交った。冒頭で〈問題作〉としたのは、そのなかで前述の星原のインタヴュー記事に対する安孫子からの批判があったり、彼らが(結果的には)距離を置いていた日本の音楽メディアに対する違和感の表明も含んでいるからだ。けれどそういったリアクションはインタヴュー全編に溢れる安孫子真哉の音楽に対する底なしの愛、自分自身をも救ったパンク・ロックへの深い愛情ゆえの主張であり、気高いパンクのアティテュードをまとったKiliKiliVillaが2015年からの〈特別な2年間〉を牽引しそうな強い予感と希望に満ちた本記事のなかでは、ほんの些細な事柄に過ぎない。ただの音楽好き同士が腹を割って話し合った2時間のドキュメント、まずは安孫子の音楽遍歴からシーンへの帰還、そして与田の目から見た90年代のシーンとの相違点まで、貴重な発言満載の前編をご覧あれ!

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VARIOUS ARTISTS WHILE WE'RE DEAD. : THE FIRST YEAR KiliKiliVilla(2015)

 

僕は偏ってると思います。商業誌のなかのロック・シーンとかはほとんどわかってないし、〈売れないとしょうがない〉みたいなスタンスにはひいてしまうタチなので

――安孫子さん、モ・ワックスのTシャツ素敵ですね。そのへんの音楽も聴いてたんですか?

安孫子真哉「聴いてましたよ! 高校の修学旅行のときに、地元の山形から京都に行ったんですけど、パンク系のレコード屋さんだけでなくクラブ系のレコード屋も探したりして。モ・ワックスのレコードバッグも買って通学カバンにしてましたね」

――え~!

与田太郎「アビちゃんが高校2~3年ってことは、95~96年?」

――じゃあまだDJシャドウのファースト・アルバム(96年発表の『Endtroducing』)が出る前ですか?

安孫子「そうですね。山形の同級生に謎なヤツがいまして、毎週シスコから週2回レコードを注文してて。高校1年生のときそいつの家に遊びに行ったら、レコードが2,000枚くらいあるんです。考えてみればボンボンだったかもしれないです(笑)。兄貴ともレコードをシェアしてて、じいさんを騙したり(……以下自粛)」

――そんな荒っぽい手法でレコードを収集してる友達もいたと(笑)。安孫子さんは高校生の頃からパンクとそれ以外のジャンルの音楽を並行して聴いていたんですか?

安孫子「そうですね。中高の頃は夏休みとか長い休みの期間中に友達と遊ぶことが皆無で(笑)。友達がいないわけじゃなかったけど、誰と遊ぶでもなく部活から家に帰ってCDやレコードを聴くようなサイクルでした。パンクはイカ天に小学生の頃に触れて〈自分はロックが好きなんだな〉って気持ちを自覚したのから始まり、上京してパンクに目覚めた従兄弟からそういう音楽を教えてもらって、中2くらいからパンクにハマった。高校に入ったらニューウェイヴやテクノが好きなヤツと出会って、それで並行して聴いてましたね。でも当時1年間くらいはパンクを聴かずにクラブ・ミュージックばかりだったかも」

――すでにその当時パンクから離れた経験があったんですね。

安孫子「でも雑誌のDOLLはずっと買ってました。高1の最後くらいにはSnuffy Smileとかを中心にパンクもかなりチェックするようにはなってて。〈世の中では何が起こってるんだ!?〉ってものすごい衝撃を受けてましたね」

LIFE BALLがSnuffy Smileからリリースした95年作『Not Superstitious 2』収録曲“Love Me”。2014年にはアルバム『Step Wise』以外の曲をコンプリートしたレア音源集『If I were your friend』がKiliKiliVillaから発売された

 

与田「94~96年って、ケミカル・ブラザーズがデビューした時期でもあるよね」

安孫子「ケミカル・ブラザーズなんて、“Leave Home”(95年発表のファースト・シングル)を2枚買いしましたもん」

与田「青いカラーのほうとモノクロのほう……」

安孫子「モノクロって何でしたっけ?」

与田「モノクロはアンダーワールドのリミックス。でもあの頃のブレイクビーツやヒップホップは2枚買いだったよね」

ケミカル・ブラザーズの95年のシングル“Leave Home Underworld Mix 1”

 

――安孫子さんがKiliKiliVillaのコンピレーション・アルバム『While We're Dead.:The First Year』に付属のファンジンに寄せたコラムのなかで、xxやジェイムズ・ブレイク、フライング・ロータスだったり、フェネスやラブラッドフォード、降神など、幅広いジャンルの音楽の話が出てきて意外だったんですが、いまのお話を聞いて納得しました。

安孫子「でも僕は偏ってると思いますよ。海外の音楽って、日本に住んでいると向こうでの立ち位置や、影響力とか人気の程度が実際のところはよくわからないので勝手な妄想で済ましているのですが、日本のバンドに対してはものすごく偏見があります(笑)。商業誌のなかのロック・シーンとかはほとんどわかってないですし、〈売れないとしょうがない〉みたいなスタンスにはひいてしまうタチなんです」

与田「それって伝統的な洋楽ファンの音楽の聴き方だよね」

安孫子「うん、そうだと思います」

――そんななかで安孫子さんが国内の身近なバンドで最初に興味を持ったのは誰ですか?

安孫子「小学生の頃の米米CLUBとかは置いといてって話ですよね(笑)? バンド・ブームがあって、洋楽の70sのパンクに目覚めて……同時進行で夢中になっていたバンドが山ほどいたので。やっぱりまだ見ぬパンク・シーンというもの全体に夢中になりましたね」

――安孫子さんが上京するのって何年頃ですか?

安孫子「19歳になる97年ですね」

――当時はもうGOING STEADYに加入してたんですか?

安孫子「上京して半年くらいでバンドが始まった感じですね。97年の夏頃かな」 

――そこからはパンク・シーンにどっぷり?

安孫子「そうですね。あの頃……みたいな昔話的な言い方は本当にイヤだけど、いまよりもやっぱりバンドはたくさんいたしおもしろかったですね。平日でもイヴェントがいっぱいあったし。そこから2001~2002年くらいまでは週何回ライヴハウスにいたのかわからないくらいどっぷり浸かってました。渋谷GIG-ANTIC、西荻WATTS、下北沢SHELTERの3つには相当入り浸ってましたね。情報もいまみたいにウェブで収集できなかったから、誰かの作品のサンクス・リストに載ってた地方のバンドや、フライヤーでなんとなく名前を見たバンドだったりの情報を、地道に集めて。いろんなバンドが謎めいていてすごく活気があった気がします」

――その頃仲が良かったバンドってどのあたりの方々ですか?

安孫子「GOING STEADYの場合、僕らは基本的にパンクが好きだったけど、わりと早いタイミングで売れちゃったから、例えばSnuffy Smileのバンドなんかすごく好きでも交わりようがなくて。本当は僕個人的にはアングラなバンドのままで全然良かったんです。そういうシーンに参加できるだけで。そんなときに当時とても憧れてたアンダーグラウンドのパンク、ハードコア・バンドがたくさん出演してた〈SET YOU FREE〉っていうイヴェントをやってた千葉(智紹)さんという人と知り合いになって、そういうシーンのバンドと出会う取っ掛かりを作ってもらったんです」

――そのなかでも頻繁につるんでいた人たちはいましたか?

安孫子「結構万遍なく共演させてもらったのかな。いまの若いパンク好きの子に〈安孫子さんたちって昔どんな感じだったんですか?〉って訊かれたときに、例えば〈SPRAY PAINT※とも一緒にやらせてもらったことあるよ〉と話すと〈えっ~意外!〉みたいなリアクションされたり。銀杏BOYZの初期まではいろんなバンドと対バンしてたと思います」
※90年代後半から数年活動した新潟発の伝説的なメロディック・パンク・バンド

SPRAY PAINTのライヴ動画

 

各地のバンドのデモ音源をもらって聴いたとき、行き場のない淡々とした日常から救われる感じがしたんです

――与田さんや福井さんと出会うのはその頃ですか?

安孫子「そうですね。ゴイステ(GOING STEADY)が始動して1年くらいで当時YOUNG PUNCHだった福井さんから声がかかって、(現在POTSHOTのRYOJIが主宰する)TV-FREAKからリリースすることになって。98年くらいだったかな?」

与田「初めてGOING STEADYを観たのは99年1月に新宿LIQUIDROOMでやった〈TV-FREAK NIGHT〉。たぶん初っ端に出てたと思う。その頃って僕がいったんUKプロジェクトを辞めていたときで、自分でダンス系のイヴェントやレーベルをやっていたんですけど、UKプロジェクトが忙しくなって〈バンドがいっぱいいるから現場やってくれないか〉と誘われて。〈TV-FREAK NIGHT〉の日に〈今日は7バンド出るから、良いと思ったバンドを担当してよ〉と頼まれたんです。〈じゃあGOING STEADYで〉って。そこからプロデューサーとして福井くんが全体を見てくれて、僕が現場のディレクターを担当しました」

――へぇ~! KiliKiliVillaに繋がる3人のフォーメーションが15年前にはすでに出来上がっていたんですね!

安孫子「(感慨深げに)そうですね~。その頃から与田さんにはいろんな音楽のことを教えてもらっていたし、福井さんには食事に連れて行ってもらって」

与田「〈何が好き〉みたいな話はいつもしてたよね」

安孫子「一生パンクしか聴かないつもりだったんですけど(笑)、与田さんに〈音楽好きだったら絶対ココ行ってココ通った後にマンチェにヤラれて……〉みたいな話をされて〈そんなもんすかね~〉とか笑ってたのに、気が付いたらその通りに……(笑)」

与田「予言っぽくね(笑)。70年代の初期パンクが好きで、その人が本当の音楽好きだったらだいたい辿るルートってあるじゃないですか。ネオアコ行ってギター・ポップも行って」

安孫子「60年代にも戻りつつ……」

与田「スミスにヤラれて、みたいな。だからそういうのを予言しておいたんです(笑)」

安孫子「30歳手前くらいになって、それまで避けていたストーン・ローゼズに死ぬほどヤラれて(笑)。でも与田さんからの影響は本当に大きいと思いますね」

ストーン・ローゼズの89年作『The Stone Roses』収録曲“She Bangs The Drums”

 

与田「年齢はちょうど10歳くらい僕のほうが上だけど、パンクが入口って部分もまったく同じだし。辿った道はほぼ一緒なんじゃないかな。まぁ俺の場合は聴きはじめの頃はジャムもクラッシュも現役だったので、そのへんは違うけど……アビちゃんの時代はスミスはもう解散してたんだっけ?」

安孫子「そうですね」

与田「87年だとそうか」

――与田さんからの影響って、その時代のGOING STEADYの周りにいたバンドに対してもあったんですか?

安孫子「みんなと話してたとは思うんですけど、でも僕が一番喰らいついてたかな」

――それはやっぱり、モ・ワックスじゃないですけど下地があったからなんでしょうね。

安孫子「昔からずっとそういう感じですからね。僕が活動を再開してからもいまみたいな感じで〈最近何聴いてるの?〉って訊かれて、〈最近は日本のパンク・バンドがおもしろくて〉って答えたら、与田さんが〈ええっ!〉って驚いて。〈じゃあちょっとプレゼンしてよ〉と言われたんです」

――まさにその部分を今日は詳しく訊きたかったんですが、KiliKiliVillaの立ち上げのきっかけはSEVENTEEN AGAiNのYABUSON(ヴォーカル/ギター)さんがキーになっているんですよね?

安孫子「そうですね、本当にいろいろと刺激をいただいてます」

――安孫子さんが銀杏を辞めてから奥様の地元である群馬に引っ越して、しばらくシーンから離れる時期があったという。

安孫子「銀杏BOYZは、最後の頃はライヴをしなくなって、ずっとスタジオにこもって作業をしていたんです。外の世界をシャットアウトしてたから、もはやシーンのことは何もわからなくて。その頃にI HATE SMOKEの大澤くん(OSAWA17|SEVENTEEN AGAiNのベーシスト)がディスクユニオンで働いていて、僕らが20歳くらいの頃にすごく安かった80年代、90年代のパンク・レコードが、いまは再評価されて値段まで高騰してると。そこで〈ディスクユニオンでディスクガイドを作りたいから寄稿してください〉と頼まれたときに、初めて6歳年下のヤブくんだったり大澤くんときちんと話をする機会ができて。〈SEVENTEEN AGAiNって名前は知ってるな〉程度の認識だったけど、好きな音楽が似ていたから、最初は〈久々に歳下の友達ができたな〉くらいの感覚だったんです」

kilikilivillaからリリースされたSEVENTEEN AGAiNの2015年作『少数の脅威』収録曲“リプレイスメンツ”


――その出会いはいつ頃の話ですか?

安孫子「震災後……2011年か。それからわりとすぐSEVENTEEN AGAiNのセカンド・アルバム(2012年作『FUCK FOREVER』)のリリースのタイミングだったのでレコ発を観に行ったら、まったく知らないシーンという感じで。その日は〈いろんなバンドがいるなぁ〉くらいの印象だったけど、ちょくちょく彼らと連絡は取り合って遊んだりしてて。その後に僕が東京から群馬に引っ越しする際に、大澤くんから〈これ北関東のバンドですよ〉って、出たばっかりのCAR10のファースト・アルバム(2014年作『Everything Starts From This Town』)をもらったら、それがすごく良かった。そのときは、たまに上京してSEVENTEEN AGAiNのライヴを観たり、CAR10あたりの北関東のバンドを近所で観れたら、自分の音楽人生はもうそれでいいやくらいに思っていました」

CAR10の2014年作『Everything Starts From This Town』収録曲“海物語”

 

――あくまで、いち音楽ファンとして楽しく生きていこうという想いですね。でも、そこからレーベルとして動き出すまでは、気持ち的にもうワンステップ必要ですよね。

安孫子「そこで、SEVENTEEN AGAiNから〈ツアーに行くけど車に同乗しませんか?〉って誘われて、家で何もやることなく人と話すこともない生活だったから〈これは楽しそうだな〉と連れて行ってもらったら……いろいろと考えるところがあった」

――現場を見て考えるところが多かったと。

安孫子「20歳そこそこの若いバンドの子たちと交流が持てたというのは、すごくデカかった。〈音源聴いてください!〉って山のようにデモをいただいて、申し訳ない気持ちもありつつ家に帰って聴いてみたら〈あれ? 昔聴いてたパンクと似てるけど、何か新しい動きが起きているんじゃないか?〉と思いはじめて。そこから調べていくうちに〈これは自分も参加したいな〉という気持ちが芽生えていったんです」

――実際にシーンの熱や変化を目にすることで、意識が参加する方向に傾いていったんですね。その頃にもらった大量のデモ音源のなかで、いまのKiliKiliVillaと関わりがあるアーティストはいるんですか?

安孫子「その時で言えばKillerpass、MILK、THE ACT WE ACT、odd eyes、Homecomings、Hi,how are you?あたりですかね。例えば京都で初めてodd eyesのメンバーに会った時に、あまりに素晴らしく強烈なキャラクターに驚いてたら(笑)、Homecomingsもメンバーからも〈これ聴いてくださ い〉って音源をいただいて、どっちのことも知らなかったけど、たぶんこの女の子のバンドもこう見えて実はストレンジなハードコアなんだろうと勝手に思ってました(笑)。家に帰って音源聴いたら〈何だコレは!〉って。自分がキッズに戻った感じがして〈こんなにワクワクするの何年ぶりだろう!〉と。行き場のない淡々とした日常から救われる感じがして……あれは本当に嬉しかったですね。そういう気持ちが一番大事だと思うし」 

 

〈後ろめたいことはしたくない〉っていう気持ち。これまでとは違う形で納得できるレーベルができるんじゃないかという強い予感があった(与田)

――その段階でレーベルを始めるモチベーションが満タンになったんでしょうね。そこから現実の動きとして〈レーベルをやろうか〉というステップに移行するきっかけは何だったんですか?

安孫子「そのツアーの直後に、与田さん、福井さんといった方たちと共通の友人の計らいで久々に会う機会があったんです」

与田「彼が群馬に行ってしまって、僕らもそれぞれ連絡を取っていなかったので、〈東京に来る機会があるならみんなで集まろうよ〉って。来れないメンバーもいたけど、とりあえずチームで飲み会をやったんです。その場でアビちゃんから〈いまの若いバンドのツアーに付いて行ったら、こんなことが起きてるんだ〉って話を聞いたときに、たぶん僕も福井くんもバラバラで〈これってレーベルやったらいいんじゃない?〉って感じてたと思うんだけど、とりあえず〈じゃあ3人で会って話をしようよ〉という流れになって」

――なるほど。

与田「僕らは普通に仕事としてやるレーベルは経験者だけど、そういう形ではなくて、もっと自由でフェアな姿勢でやりたいと思ったんです。それこそファクトリーやクリエイションじゃないけど、彼らがやっていたようなスタイルで、しかも仕事にしなくてもできるんじゃないかな?という気持ちがあった。〈後ろめたいことはしたくない〉っていう気持ち。インディーと言えど、現状ではメジャーが採用しているシステムとかなり近い部分があって、それは僕らが好きだったUKのインディー・レーベルの運営とは違う。もちろん日本的な慣習は理解できるものの、もう少し理想を追ってもいいんじゃないかという部分と、バンドに対するケアの部分でも違和感があった。そこへの贖罪ではないけど、アビちゃんの話を聞いたときにこれまでとは違う形で自分たちが納得できるものができるんじゃないかという強い予感があったんです」

安孫子「お金のことを詳しく話すのも野暮ですけど、バンドに対してもこれまでになくフェアな形でやれそうだったので〈これは素晴らしいな〉と」

与田「ラフ・トレードでも初期はそうですが、レーベルがまずリスクを背負って、利益はお互いに折半するような、同じ目線でやっていたと思うんです。アラン・マッギー然りジェフ・トラヴィス然り。僕なんかはもともとそういったものに憧れてレーベルを作ったりしてたので、一度本当にそれをやってみたらいいんじゃないかな?と感じて。メジャー的なやり方がある意味では破綻した時代ではあると思うので、よりフェアで自由度の高いやり方を試せるチャンスではあると思うんです」

――かつてのインディー・レーベルが持っていたDIY精神ですね。

与田「そのかわり無茶はできないけど(笑)。売ることを目的にするんじゃなくて、音楽的なプロデュースや監督はアビちゃんに任せながら、彼が動きやすい状況を整えて、バンドと同じ目線でやっていくことを大事にしたいなと」

――与田さんに本題とはズレる質問なんですが、セカンド・サマー・オブ・ラヴをリアルタイムで体感した与田さんがVenus Peterやsugar plantを擁したWONDER RELEASEを90年代初頭にスタートさせて、確かにそこにはダンス・カルチャーが育んだDIYの哲学や美学を経由してきたカラーが感じられたけど、同時にUSのメロディック・ハードコア・パンク的なスタイルの先駆けだったBEYONDSも在籍していたじゃないですか。それはなぜだったんですか?

与田「WONDER RELEASEが始まったのは91年で、BEYONDSの最初のリリースが93年。あの頃のインディー・ダンス、マッドチェスターのような音楽が本当にアツかったのって、実は91年いっぱいなんです。ある種のシーンが奇跡的に輝く時間って、いつの時代も1~2年程度でそんなに長くない。Venus Peterが作った92年の『SPACE DRIVER』は〈これで何かが変わるかな?〉って思うくらい良いアルバムだったけど、結果的にはメジャー・デビューしたにもかかわらずそこまで売れなくて。Venus PeterやSECRET GOLDFISHと同世代のインディー系バンドもどんどんデビューしていったけど、全然結果が出なかった。ストーン・ローゼズも沈黙期間に入って、盛り上がらなくなっていきましたよね」

Venus Peterの92年のシングル“Star Parade”

 

――つまり、日本では海外の失速が始まった後に仕掛けてしまったから、セールス的にも波に乗り切れなかったと。

与田「93年になってブリット・ポップが始まるあたりで、僕はそっち方面がダメで〈違うものになってしまった〉と感じていたんです。サマー・オブ・ラヴが終わったという感覚。ただ、あの頃BEYONDSの中村くん(中村修一:ベース)がVenus Peterを好きで、ライヴを観に来ていて」

安孫子「ほぉ~」

与田「中村くんはギター・ポップがすごく好きで、だからBADGE714みたいな音のバンドを組んでましたよね。そこで彼のバンドを観に行ったらすごく良かったんですが、一緒に演ってたNUKEY PIKESやVOLUME DEALERSがお客さんは全然いないのにめちゃくちゃアツくて、〈これはリリースしなきゃダメでしょ〉ってことでBEYONDSを出したんです。当時だとTHE FLAMENCO A GO GOあたりも同じ時期だったと思うけど、ガレージっぽい音も含めて〈ライヴハウスでバンドを見つけよう〉と思ってやり直した。そしたらNUKEY PIKESは翌年に解散しちゃうんですけどね(笑)」

NUKEY PIKESのライヴ動画

 

――その頃に与田さんが見たBEYONDSやNUKEY PIKES周辺の状況と、いまKiliKiliVillaがフォーカスしているようなパンクのシーンを比較したときに、どういった相違点がありますか?

与田「90年代のほうがよりおおらかだったような気がします。当時のBEYONDSのメンバーは23~24歳くらいだったけど、NOT WONKにしろCAR10にしろ比較するとすごくしっかりしていて、〈自分はバンドをやるからほかのものは全部捨てる!〉みたいな感覚はないかもしれない。僕はそれは良いことだと思うんです。BEYONDSのときは、ちょうどヴォーカルの谷口くん(谷口健)が大学4年で就職活動の頃に2枚目のアルバム(『The World, Changed Into Sunday Afternoon』)を作っていたのかな、いまだったら〈仕事を決めて土日中心の活動にします〉って躊躇なく言えると思うけど、あの頃はそうでもなくて」

BEYONDSの90年代のライヴ映像

 

安孫子「僕もいまの子たちと話していて思うのは、おそらく現在30歳くらいの世代からそういった傾向が強いと勝手に踏んでいるのですが〈バンドをやるからフリーターをします〉って子はすごく少ないですね。みんな就職しながらで。ライヴ活動は基本土日中心。そこが昔との一番大きな変化かな」

与田「90年代前半って、UKもUSも新しいバンドがガンガン出てきてすごく盛り上がってた。でもそこまで細分化されてなかったから、ギター・ポップもパンクも並列に聴いてたし、ニルヴァーナとプライマル・スクリームを同時に聴いてる人も多かったと思うんです。時代の空気はアツかったし、バンドのメンバーも〈俺たちは何者かになってやるんだ〉という熱意を持ってたけど、結果的にはいまのほうが時代の空気は冷めているものの、何者かになれる可能性は高いんじゃないかと思う。不思議な状況というか」

――それは興味深い考察ですね。

与田「もちろんBEYONDSは相当良かったので、USツアーにも行って〈これで何かが起こるだろう〉と思ったけど、そうそう簡単なことじゃなかった。むしろ、NOT WONKやCAR10やSEVENTEEN AGAiNが自分たちのペースで活動を続けながら、もっと先まで行ける可能性はあると思っていて」

――なるほど。

与田「90年代は成功事例としての渋谷系か、パンクだとHi-STANDARD周りのことしか語られない傾向がありますからね。失敗事例を糧にしようという気持ちは正直ありますよ」

※後編はこちら