ナナという得難い友が遺した大きな音楽への愛を明日へ
共に演奏するはずだった盟友ナナ・ヴァスコンセロスとの別れを胸に来日したエグベルト・ジスモンチ。4月20日に練馬文化センターで行われた彼のコンサートは、誰もが語り継いでいくことになるであろう、伝説的な美しさと輝きを放っていた。悲しみと喜びが幾重にも交差する心境から紡ぎ出される音は、時に声をふりしぼるような慟哭と、天高く飛翔する歓喜に溢れていた。熱意あふれる聴衆の、一つの音も聞き漏らすまいという渇望が大きなうねりとなって空間を充たし、濃密な瞬間が降り積もっていった。
「夫人から電話がかかってきて、翌日私は飛行機で3時間離れているナナの元へ駆けつけた。そして最後の1日半をともに過ごすことができた。真の友を失うということには二つの側面があると思う。一つは大きな悲しみ、そして二つ目は、得難い友に出会えたということ、人生の報酬への感謝だ」
ピアノを通したクラシックのアカデミックな教育と、そこからアダプトされ独自の技法を開発するに至った自在なギターを学び、自己の表現を模索していた若い頃からブラジルのルーツ・ミュージックにも着目していたジスモンチは、ナナの『アマゾナス』(1973)というアルバムに大きな感銘を受けていた。
「ナナと初めて会ったのは、レブロンという街の運河に臨んだルイス・エサの家だった。その後私はECMのマンフレート・アイヒャーからレコーディングをしないかと誘われて、オスロに向かうことになったのだけど、寒くて太陽の出ている時間も短いところに行くのが心細くて、経由地のパリでしばらく過ごしていたんだ。ある晩、レストランで食事をしていると、ブラジルの俳優、ゾージモ・ブルブルがたまたまやってきて、何をしているのかと尋ねた。わけを話すと、『だったら今晩はうちで食事すればいい、ナナに連絡して料理を作ってもらおう』と言うんだ。ナナはとても料理が上手で、鶏の血を一緒に使う独特な煮込みを作ってくれた。それで、あなたはこの後、何をしているのか、と予定を聞くと、空いている、というじゃないか。なので一緒にオスロに行ってレコーディングしないか? と誘ったんだ」
二人のインディオの子供が、昆虫や動物や鳥達の生きるジャングルで遊んでいる、というイメージのアルバムを作りたいと長年温めていたアイデアは、幸福な偶然からナナとの名盤『ダンサ・ダス・カベサス(邦題:輝く水) 』(1977)に結実した。ドイツ・レコード大賞も受賞したアルバムのセールスを受け、300箇所もの公演を行った。そしてその後、ジスモンチはさらなる音楽の秘境へと踏み入ることとなる。
「私はブラジルという大きな国の、26の州とブラジリアそれぞれの文化に触れながら、ある時はエレクトリック・サウンド、ある時はヴィラ=ロボスの音楽、ピアノやギターでのアコースティックなフォーマット、チャーリー・ヘイデン、ヤン・ガルバレクとのトリオ、そしてラルフ・タウナーとの共演など、一つの方向性を追求してはそこから離れ、ということを繰り返してきた。それはブラジルを代表する画家ポルチナリが描いたニューヨークの国連本部に飾られている絵のように、近くでだけじゃなくて、離れても見ないと全体像がつかめないものがあるという気持ちからだ」
近年は子供達への教育プロジェクトに携わるだけでなく、できる限り若い世代のミュージシャンの音楽に耳を傾け、時に細かな感想を述べるという。
「私が彼らの音楽を聴いて思うことを伝えるのは、私がその音楽を好きか、嫌いか、ということとはまったく関係がないんだ。音楽というのは、作曲されて、それが誰かの手によって演奏されて、そして聴かれて楽しまれるということで初めて人生の糧となる。だから、すべての音楽がかけがえのないものだ」
「あえて言うなら、音楽には二種類しかない。私が大好きで今日まで必要としている音楽、そして、私が明日から必要とするであろう音楽さ」
そう語るジスモンチは、友が遺した思いを胸に、音楽をさらなる大きな愛で包んでしまおうとしているように見えた。