〈スクリッティ・ポリッティの来日公演〉。グリーン・ガートサイドの〈天使の〉と形容される歌声、そして哲学そのものとも言うべき歌詞に魅了されたことがある者なら、その一文を見ただけで涙するかもしれない。それほど貴重なスクリッティ・ポリッティのライヴがBillboard Live TOKYOで2017年11月4日(土)、5日(日)の2日間にわたって開催される。日本での演奏は2006年以来、なんと11年ぶり。奇跡の一夜になること請け合いだ。ここではスクリッティ・ポリッティのキャリアを振り返りつつ、ライヴに足を運ぶべき理由を語っていきたいと思う。
スクリッティ・ポリッティは、イギリス、ウェールズ州リーズのアートスクールで学んでいたグリーン・ガートサイドがセックス・ピストルズのライヴに衝撃を受け、地元の友人やクラスメイトを誘い77年に結成された。左翼の若者たち(バンド名は、イタリアのマルクス主義思想家であるアントニオ・グラムシの著作をもじっている)による、マッチョで権威主義化したロック・ミュージックを批判する初期のスクリッティは、ローファイなホワイト・レゲエ・バンドであった。当然のようにDIY思想をバンドの根幹に据えていた彼らは北ロンドンのカムデンに居を移し、共同生活のスクワット(不法占拠)をはじめる。非ミュージシャンも含めた流動的なメンバーたちは、夜ごとアンフェタミンに浮かされながら哲学的な議論を重ねたという。自主製作したファースト・シングル、“Skank Bloc Bologna”はグラムシ理論の用語〈歴史的ブロック〉とイタリア・ボローニャでの政治暴動に由来している。
その後、ラフ・トレードからいくつかのEPやシングルをリリースしたのち、グリーンは薬物の過剰摂取と不規則な生活に因る重度の不安発作に襲われ、休養を余儀なくされる。スクリッティの〈転向〉のきっかけは、その入院中の思索とマルクス主義に対する絶望によるという。そうした経緯を経て、ジャック・デリダの脱構築概念から強く影響されたグリーンは、ポップ・ミュージックの主流に飛び込み、それを内側から食い破ることを固く決意。81年、アレサ・フランクリンなどのリズム・アンド・ブルーズや初期のビートルズを研究した新生スクリッティ・ポリッティは“The ‘Sweetest Girl’”をリリースする。
同作の高級商品を模したアートワークはDIY思想を捨てさったことを意味している。一時期はインタヴューなどで“The ‘Sweetest Girl’”に代表される初期作品を否定していたグリーンだが、近年のライヴではこれらの楽曲も積極的に歌っているようだ。
甘いルックスでフランス現代思想からの影響をNMEなどのメディアで語るグリーンはカルト・ヒーロー化し、その勢いのままバンドは処女作『Songs To Remember』を82年にラフ・トレードからリリースする。クリアなサウンドとソウル・ミュージックやロックンロールからの影響をストレートに表現した音楽は市場にも好意的に受け止められる。が、音楽性の変容を主導するだけでなく、バンド内の権力を自身に集中させて実質的なリーダーとなったグリーンのもとからメンバーたちは離れていった。
グリーンのソロ・プロジェクトとなったスクリッティはメジャーのヴァージンとサイン。世界を席巻しはじめていたNYのヒップホップ・サウンドに影響されたグリーンは、当地のドラマーであるフレッド・マーと鍵盤奏者のデヴィッド・ギャムソンをバンドに加え、ホール&オーツを手掛けたプロデューサーのアリフ・マーディンとともにダンサブルなポップスをつくりあげることを目論む。そうして、グリーンの言葉を借りれば〈スイス製の時計のように〉制作されたのが、ポップ音楽史にマスターピースとして刻まれている『Cupid & Phyche 85』である。
“Wood Beez”“The Word Girl”“Absolute”“Hypnotize”“Perfect Way”――アルバムの大半の曲がシングル・カットされ、イギリスのメインストリームのみならずアメリカのダンス・チャートでも好意的に迎えられヒット。漂白されたかのようにフレッシュなファンク/レゲエ・サウンドとマイケル・ジャクソンにインスパイアされた中性的で儚げなファルセット・ヴォイスを携え、スクリッティ・ポリッティ=グリーン・ガートサイドは一躍スターダムにのし上がる。88年には『Cupid』の路線をさらに推し進めた『Provision』を発表。マイルス・デイヴィスが“Perfect Way”をカヴァーした縁からアルバムに客演したことも大きな話題を集めた。