
〈ECM使い放題〉VS〈ミュージカル・アドヴァイザー〉
そもそもゴダールは80年代に、マンフレッド・アイヒャーから、ECMの全ての音源の使用許諾を貰い、以後〈ECM映画〉と揶揄されるほど、ECM音楽ばかり使うようになりました。それより前は映画音楽の巨匠と仕事をしても、上手くいきませんでした。さらに前には、部屋にあったバッハやモーツァルトやベートーヴェンを適当に流していた(&フェードアウトできず、自分で針をあげてブツっと切っていた)筈ですから、初心に戻ったとも言えますが、この瞬間にゴダールは権利の侵害について、ズルズルになったと思います。
ゴダールは60年代から、抜粋と引用は異なるものであり、芸術的・商業的利益を引き出すための〈抜粋〉に謝礼を払うのは当然だが、それとは別に批評的な〈引用の権利〉というものがあるのだと強弁し続け、「『映画史』をTV放映しても誰も何も言ってこなかった」とまで発言しました。その後、権利の侵害で告訴され、敗訴していますが、これは挿話としても小さすぎるので詳述はしません。そして今や、〈ゴダールに引いてもらえるなら光栄〉ぐらいの玉座に座っています(まだフランス公開の目処が立ってないらしいので、ひょっとすると何かが転倒したのかもしれません)。リア王であり道化でもある。
合衆国は今、禁酒法時代や大恐慌時代と似て、倫理観が病的に厳格になっている事はどなたもご存知でしょう。やっと固まった肩書き名〈ミュージカル・スーパーヴァイザー〉ですが、これはハリウッド映画に於いて、劇伴であるOST(オリジナル・サウンドトラック)とは別に、既成曲をDJのように選曲し、劇中に配置し、クリアランスまで請け負う仕事で、つまり現在の合衆国映画の音楽は、タンデム体制になっている訳ですが、当然これは、エンドロールの表記に於いても、極端に記述が厳格になり、出版元の明記は勿論のこと、何年の何というアルバムの何曲目、ぐらいまで書いてあるものが、一覧票になります。
そして、「イメージの本」のラストは、この〈一覧票〉しかし、その意味はハリウッドとか全く別の、〈文字列として美しい〉だけ、という審美的なものです。ただただ、名前と作者名が書いてあるだけです。そして、これは話題になっていますが、日本映画で唯一引用されている溝口健二の「雨月物語」に関しては、恐らく忘却によって、リストアップされていません。
〈仇敵は似る〉という詩的な現実がありますが、「イメージの本」のエンドロールと、一般的なハリウッド映画のエンドロールは、一見するだに見分けがつきません。この事は、本当にすごい。本稿で最も強調したいことです。
他にも、第5節で描かれるアラブ社会に関する考察が、過去最高にロマンティークになっている事、引用にアラブ社会のポルノ映画まで召喚されている事、それがゴダール平均を遥かに超えて、直接的にエロティークである事、等々、語るべき箇所はまだまだ山ほどあるのですが、多くの語り部の方々に譲ります。