ロックバンドのように映画を壊し、絵画を描くように映画を再構築する。映画界の反逆児を貫くのは、「カップルになること」、矛盾に留まることの希求だった。
酒に酔った論客たちが代わる代わるエロス(愛)を讃える演説を繰り広げるプラトンの『饗宴』において、なかでも最もよく知られているのが、アリストファネスによる寓話だろう。それによれば、大昔の人間は「男女」、「男男」、「女女」といわば2つの性が合体した状態にあったが、その傲慢さが神の怒りを買って2つに分断され、現在のように「男」と「女」になった。その結果、人間は皆、自分の失われた半身をつねに探し求め、愛に翻弄されるのである……。
ジャン=リュック・ゴダールの半世紀を超えるキャリアを4つの章に分け、手際よく振り返る本作を紹介するに当たり、プラトンを持ち出したのは、ゴダールが単数ではなく複数、1人ではなく2人であることを求める芸術家であったことの重要性を再認識できたからだ。ゴダールにおける複数性、「カップルになること」への希求はそれほどまでに切実だった。裕福なスイス人銀行家の息子としてパリに生まれた映画作家の生い立ちについてはあまり知られていないが、ゴダールが人生を賭けることになる映画への狂おしいまでの愛もまた、家族(ブルジョワ?)からの分断を選び、別の誰かと「カップルになること」を彼が求めた表れであっただろう。実生活におけるその情熱は、ヌーヴェル・ヴァーグの寵児として脚光を浴びた時代を描く第1章から、映画界の主流を離れ、政治的先鋭化を選ぶ時期の第2章にかけて顕著である。「ヌーヴェル・ヴァーグの花嫁」と謳われたアンナ・カリーナとの出会いと別れ、68年5月を牽引した若い世代との接触のなかで出会った「女学生」アンヌ・ヴィアゼムスキーとの関係も、ジャン=ピエール・ゴランという政治=芸術的な「同志」との出会いを引き金に破局を迎える。そして、1971年の深刻な交通事故を経て、終生変わらぬ伴侶=同志アンヌ=マリー・ミエヴィルとの公私にわたる協働が始まる……。
第3章以降、「カップルになること」への希求は、恋愛や党派性の問題にとどまることなく、自身の創作活動に収斂されていく。映像(ショット)が別の映像(ショット)と出会いや別れを繰り返すことで映画は成立し、彼は「モンタージュ」を知性や歴史の次元にまで高めた。あるいは、映画とは「音(サウンド)と映像(イメージ)」のカップル(ソニマージュ)であるとの認識が彼の手で驚くべき深化や複雑化を遂げる。音はいかにして映像と出会い、映像は音といかなる恋に落ちるのか? 矛盾は単なる対立ではない、矛盾は素晴らしい、とゴダールは毛沢東から学んだ。矛盾とは、AとBの出会いと別れ、接続と衝突、抱擁と殴り合い、(映画への)感嘆と(別の映画への)罵倒、妊娠(身籠る)と出産(解き放つ)等々を包括する概念である。こうした「カップルの思想」への傾倒は極左時代の後も貫かれたはずで、彼の印象を語る多くの証言が「矛盾」を孕むとしても、それがゴダールなのだ。彼は単数ではなく、(1人にして)複数であり、映画には「複数の映画史」がある。僕らはまたしても「カップルになること」に憑かれた映画作家の仕事を愛さずにいられなくなる。
CINEMA INFORMATIO
映画「ジャン=リュック・ゴダール 反逆の映画作家」
監督:シリル・ルティ
出演:マーシャ・メリル/ティエリー・ジュス/アラン・ベルガラ/マリナ・ヴラディ/ロマン・グーピル/ダヴィッド・ファルー/ジュリー・デルピー/ダニエル・コーン=ベンディット/ジェラール・マルタン/ナタリー・バイ/ハンナ・シグラ/ドミニク・パイーニ
配給:ミモザフィルムズ ©10.7 productions/ARTE France/INA – 2022(2022年|フランス映画|105分|PG12|原題:Godard seul le cinéma)
◎2023年9月22日(金)より新宿シネマカリテ、シネスイッチ銀座、ユーロスペース、アップリンク吉祥寺ほか全国順次ロードショー
https://mimosafilms.com/godard/