晩秋のつま恋の空の下に集うふるう人々の祭典
先日オウガ・ユー・アスホールのドラムの勝浦隆嗣氏さんとおしゃべりしていた(取材ですよ、念のため)おり、ドラマーとしてだれの影響を受けたかという、私の涙がこぼれるほど陳腐な質問にも、勝浦氏は真剣に考えこみ、いくつかの名前をあげたなかに、アイドリス・アッカムールとザ・ピラミッズのドラマーの名前があった。なんでも、オウガが出演したフェスに彼らも出ていて、そのステージに衝撃を受けた旨述べてられたのだが、私はまことに不勉強ながらイヴェント名をうろ憶えだったため、帰宅後現代の神器であるインターネットで検索してそれが2017年の〈FESTIVAL de FRUE〉だったと知ったのだった。〈FESTIVAL de FRUE〉はこの年に第1回を開催した野外音楽フェスで、静岡はつま恋を拠点に今年が3回目となる。名称に冠する〈FRUE〉とは〈振るう〉〈震う〉〈篩う〉〈揮う〉〈奮う〉などの含意をもつ造語で総意として〈魂が震える音楽〉を意味する――というのもまたタワレコのウェブ媒体〈MiKiKi〉に掲載した主宰者山口彰悟氏のインタヴュー記事で仕入れた知識である。なんとなれば、私は年のせいもあるとはいえ、外出が億劫になりこのところフェスから足が遠のいている。しからば情報をとるのもなおざりにならざるをえない。その私がひさしぶりに、これは行ってみたいと思うフェスというのは、どうしたってふるっている。
思えば2000年代初頭まではイヴェントごとに頻繁に足を運んでいた。日本の野外フェスのはじまりは諸説あれど、わやくちゃになった1997年の第1回フジロックを現行のモデルケースとみなすことに異論はあるまい。本稿は90年代論ではないし、そのための充分な紙幅もないが、当時の状況を端的に述べると、90年代は情報/産業テクノロジーの発達で音楽のアーカイヴ化が亢進した時期であり、アーカイヴとは分類の別名なのだから、それにともない目録化と細分化もうなぎのぼりに高まった。90年代はそのような時代として文化史に特異な領域をつくっている。とはいえ95年を境に、90年代にはその前半と後半で空気感にはわずかな、しかし看過できない異同があり、前半が陽なら後半は陰と単純化するのはいささか乱暴だが、歴史(時間)の伸張に無担保で投資する機運がそがれていったのはたしかである。すなわち過去も(が)新しいという90年代的な観点がブルー・チアーやファウストやアモン・デュールIIやデストロイ・オール・モンスターズやらの来日公演につめかけた観客の胸を高鳴らせた(私もそこにいたから実感としてわかるのですが)。であれば、その観点で歴史も分野も関係なく、ひとしなみに音楽史を面的に概観し再構成してみたらどうか、という欲望が本邦野外フェスの黎明期を裏書きしていたと感じるのは私だけではあるまい。
世紀をまたぐころにはフェスは多様化の途上につき、およそ四半世紀という長くも短くもある時間のなかで、乱立と淘汰を経て、安定的な娯楽の供給源として確立した観がある。その点もまた、ものごとにざわざわした感じをもとめるものが敬遠する理由のひとつなのかもしれない。土砂降りのよみうりランドで、サン・ラーアーケストラのマーシャル・アレンが取材場所に現れるのを、いまかいまかと待ちつづけた2002年の〈True People's CELEBRATION〉のようなことを望んでも詮ないとはいえ、音楽に落とし穴にハマるような意外性と(聴き手を)自己解体する力をもとめる身には知識と経験を積み上げるのは諸刃の剣なのか。そんなことはないだろうと、〈FESTIVAL de FRUE〉のラインナップは呼びかける。私は自戒をこめていうが、音楽はまずもって音楽の場にあって音楽とともに移り行く。体験ということばもまた落涙を誘うほどの常套句だが、しかし知識も経験もある種の音楽の場にあってふるえることもまちがいない。
2019年の〈FESTIVAL de FRUE〉の呼びものは、なんといっても待望の初来日をはたすトン・ゼーであろう。トン・ゼーはブラジルに1960年代末に起こったトロピカリズモ運動の一翼を担った歌手で、サイケデリック・カルチャーの地政学的な変容でもあった同運動の先鋭性を体現する音楽家のひとりだった。半世紀にわたる音楽活動では、不遇をかこった時期もあったが、アーカイヴ時代をさきがけるように89年にスタートしたデイヴィッド・バーンのレーベル〈ルアカ・バップ〉からのベスト盤で再評価がすすみ、ベックやジョン・マッケンタイアなどの肩入れをテコに唯一無二の音楽観が巷間に浸透したおもむきがある。色彩感ゆたかというより、補色関係を意図的になぞるような着想の幾多の作品はトン・ゼーをブラジル音楽のトリックスターに仕立てたが、2003年のイラク戦争にすばやく反応した同年の『Imprensa Cantada』に収録したブッシュ米国大統領(当時)へのアンサーソング“Companheiro Bush”では気骨あるところも示した、トン・ゼーはそのとき67歳。さらに16年の歳月がすぎ83歳となる2019年のつま恋でどのようなパフォーマンスをみせるかは、80歳の誕生日にリリースした2016年の『Canções Eróticas De Ninar(〈エロチックな子守唄集〉の意)』の関連写真で、ギターで局部を隠しただけの全裸姿(ヌードとは書きがたい……書いたけど)を披露したトン・ゼーだけあって油断はキンモツである。私たちは固唾をのんで待つほかないが、〈FESTIVAL de FRUE 2019〉には意想外の音楽をとどけてくれることうけあいのミュージシャンがほかにも多数顔をならべている。
メデスキー、マーティン&ウッドのドラマー、ビリー・マーティンは前回にひきつづきの参加だし、ジャム・バンドのながれではベネヴェント/ルッソ・デュオのマルコ・ベネヴェントもいる。彼らの当意即妙なパフォーマンスは観客はおろか、秋のつま恋の空気をもまきこむだろうし、LAの顔役カルロス・ニーニョはそこに西海岸の風をもたらしてくれるかもしれない。ダンスアクトでは皆勤賞のアシッド・パウリを筆頭に、横断的なスタイルが特徴的。このジャンル無用の姿勢はフェス全体にも通底し、〈The Hall〉と〈Grass Stage〉ふたつのステージでは時間帯の昼と夜、音楽性の硬と軟を問わず、多方面からアクセス可能なステージがくりひろげられるであろう。迎え撃つ国内組にも大友良英、ceroやヤクシマ・トレジャー(水曜日のカンパネラ × オオルタイチ)ら一筋縄ではいない面々がそろっている。管見では、ララージとクアルタべもみのがせない。私の年少の知人は、ララージが来るんですよ、ララージしかないッスよ、と息巻いていたが、アンビエント・ブーム以降、ニューエイジ化する音楽の潮流にこれほどうってつけな人物もいまい。私はミニマリズム~アンビエントの実験性や思考性を希釈化した、いちぶの宗教色のつよいニューエイジには批判的な立場だが、美しさや心地よさばかりに回収できない疑問符のようなものも、ララージはもたらすのではないか。〈考えるな、感じろ〉とはブルース・リーの至言だが、無我の境地を裏打ちするものこそ、その前後の深い思考だと考える私のようなものにとって、サンパウロの前衛チェンバー楽団クアルタべの幻想的で先鋭的なステージはおおいなるヒントになるかもしれない。このことを先述のトン・ゼーになぞらえるなら、彼は異能のひとである前に、76年のサンバにはじまりパコーヂ、ボサ・ノヴァへいたるいわゆる〈学習三部作〉で伝統の構造と発展性を深く考察した構想のひとでもあった。だったら私たちもふるえてのち考えよう。これすなわち〈ふるうことの学習〉である。
LIVE INFORMATION
FESTIVAL de FRUE 2019
2019年11月2日(土)
開場/開演/終演:11:00/11:00/27:00
2019年11月3日(日)
開場/開演:9:30/9:30 ※雨天決行
出演者:Acid Pauli/AEX/Ajurina Zwarg/Billy Marttin/Carista/Carlos Nino/Cedric Woo/cero/Daniel Santiago & Pedro Martins/Don't DJ/Geju/Itiber Zwarg/Laraaji/Marco Benevento/Quartabê/Sam Gendel/Svreca/Tom Zé/Vessel & Pedro Maia Present Queen Of Golden Dogs/Wata Igarashi/YAKUSHIMA TREASURE(水曜日のカンパネラ × オオルタイチ)/悪魔の沼/大友良英/チャッカーズ
会場:つま恋リゾート彩の郷 〒436-0011 静岡県掛川市満水(たまり)2000