松井文『ひっこし』よく味の染みた煮物のように味わい深く、一口ごとに旨みが染み出てくる

2020.06.09

日々の何気ない風景に潜むやるせない情感を、ここまで鮮烈に描写することのできるシンガー・ソングライターはそうそういない。ぶっきらぼうで等身大、それでいて今にも崩れ落ちてしまいそうなほど繊細。昨年には折坂悠太、夜久一との〈のろしレコード〉としてアルバム『OOPTH』を作り上げた松井文の新作EPには、彼女の持つ資質が凝縮されている。

思い出を引きずりつつ次の街へと移りゆく真冬の一日をテーマとした“ひっこし”、〈いつも頼りない/頼りないけど、愛してた/神様どうか、あの人をよろしくね〉と歌われる“あの娘をよろしく”、〈古い話を聞かせておくれ〉というフレーズから始まる“昔ばなし”。どの曲もよく味の染みた煮物のように味わい深く、一口ごとに旨みが染み出てくる。

また、松井の歌を優しく支えるバックの演奏も実にいい。ハラナツコによる大衆音楽の匂いがするサックス、決して華美になりすぎないロケット・マツ(PASCALS)のピアノ、全体をまとめる種石幸也のベース。松井にそっと寄り添い、〈なるほど、確かにそういうこともあるよな〉と相槌を打つような演奏である。なお、本作は配信で先行リリースされるほか、ダウンロードURL付のカセットテープでも発売。こちらには島倉千代子が68年にロサンゼルスでレコーディングした名曲“愛のさざなみ”のカヴァーも収録している。これがまた素晴らしくて、ついつい酒が進んでしまう。

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