ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー(以下、OPN)が約2年ぶりとなる新作『Magic Oneohtrix Point Never』をリリースした。

ONEOHTRIX POINT NEVER 『Magic Oneohtrix Point Never』 Warp/BEAT(2020)

今回Mikikiでは、本作を起点にしてOPNの3つの顔――普遍性をもった〈ポップ・アーティスト〉としての顔、〈ミレニアル世代のカルト・アイコン〉としての顔、聴き手を刺激し新たな物語を誘発する〈記憶の作家〉としての顔――にフォーカスし紐解いていくことにした。

まず、本作から聴きとれるOPNのポップな本性に迫るのは、過去にMikikiでアルカについての記事も執筆している音楽ライターの井草七海。続いて、OPNが本作制作に至るまでにカルト・アイコン化していった歩みを振り返るのは、7月に「ニューエイジ・ミュージック・ディスクガイド」を刊行した音楽ライターの門脇綱生。そして最後、本作にインスパイアされた聴き手として新たな物語を綴るのは、「構造素子」「すべて名もなき未来」などの著書で知られるSF作家の樋口恭介。

それぞれの視点から綴られる、読み応えたっぷりのテキストたちを存分に堪能してほしい。 *Mikiki編集部

 

井草七海が読み解く、OPNの限りなくポップな本性

黙々と何かに没頭する時、何を聴くでもなく、ただラジオをつける。チューニングを合わせると、ノイズ混じりに耳に入ってくる音楽、そしてそこにクロスオーバーし溶け込んでいる、人の声。それらのことをよく知りもしなくても、ラジオが作る音の空間は妙に心地よい。いや、チューニングを合わせるようなアナログなラジオなんて、最近はなかなかお目にかからないかもしれないが。

ダニエル・ロパティンによるソロ・プロジェクトである、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー。この奇妙で長いアーティスト・ネームが、ボストンのラジオ局である〈Magic 106.7〉の聞き間違えに由来するということを、不勉強ながら、筆者は今回初めて知った。彼にとって原点とも呼べるそのラジオ局の名前をもじった彼の新作『Magic Oneohtrix Point Never』は、ある意味では彼の集大成かもしれないが、根本の部分では、おそらくそうではない。これは、彼自身が〈自分はいったいどんな音楽を作りたいのか〉という初期衝動を改めてとらえ直した作品であるように、筆者には感じられる。

〈架空のラジオ〉をコンセプトとした今作は、所々にラジオのジングルのようなトラックを挟みながら展開されていく。作品を構成する楽曲は、彼の作品群の中でもこれまでになくポップだ。そのポップさの一翼を担うのが、ウィークエンド、アルカ、元チェアリフトのキャロライン・ポラチェックら、ゲスト・ヴォーカルの存在である。だが、それだけ豪華なヴォーカリストたちの声にさえも、エフェクトがたっぷりとかけられており、彼の紡ぐトラックの起伏の波に紛れこまされている。彼ら生身の人間の声と、電子音との区別は限りなく曖昧だ。

中でも特に耳をひくのが7曲目“The Whether Channnel”から8曲目“No Nightmares”への流れ。タイトルの通り、深夜に流れ出す、機械的な天気予報番組のバックでかかっているような、人間味がないのになぜか心に染み入るヒーリング・ミュージック風のサウンドに耳を傾けていると、突然ノンビートのトラックへと切り替わる。そして激しいエレドラムが高らかに鳴り始めるとともにウィークエンドのヴォーカルが混線、そのまま彼の歌が司る“No Nightmares”へとなだれ込むのだ。

“No Nightmares”では、本名のエイベル・テスファイとして今作の共同プロデューサーに名を連ねる、ウィークエンドという強力なポップ・アイコンの加工された機械的な歌が、OPNの紡ぐ、80年代のニューエイジのようでありながらチェンバー・ポップのようでもあり、けれどもそのどちらでもないようなトラックに溶け合うことで、なぜかほんのりと幸福感の漂う奇妙な感覚を聴き手に味わわせる。

『Magic Oneohtrix Point Never』収録曲“No Nightmares”

“No Nightmares”は本来はウィークエンドのために作られたものをもとに、ウィークエンド自身が「よりOPNらしく」と指示しできあがったそうだが、そのエピソードに登場する〈OPNらしさ〉こそ、まさしくここで見てきたような、音と声の混線にあるように思う。

OPNが注目を浴びるようになったきっかけである4枚目のアルバム『Returnal』(2010年)や5枚目の『Replica』(2011年)でも、身元もわからない名も無き人の声を、トラックのパーツとしてささやかに忍び込ませていたわけではあるが、その後作品のリリースを重ねるにつれ、〈声〉の使用の比重は増すばかりであった。

ただ、近作である『Garden Of Delete』(2015年)、『Age Of』(2018年)において、より明確なリリックと歌唱が作品に盛り込まれるようになっていったとて、やはりそれらはノイズまみれ。パソコンの起動音やエラー音、家電の駆動するような音、子どもの頃に遊びつくしたゲームのBGM……等々、この消費社会を漂う、日常のどこかで聴いたことがある機械の音に似たサウンドと並列に扱われているのである。

若い頃には、ラジオをエアチェックしながら気に入った部分だけを録音しミックステープを作っていたという彼の耳には、ノイズにまみれてしまえば機械の音も人の声も等価に聴こえてしまうのかもしれないし、だからこそ、この原点回帰的なアルバムにおいて、ラジオを装った構成を取ったというのは、大いに納得できる話だ。

彼がそんな原点を見つめるきっかけとなったのは、やはりこのコロナ禍によるところが大きいようだ。人との接触が失われ、家に引きこもった結果か、今作後半の楽曲は、彼の諸作の中でもとりわけ内省的だ。

異様にベタでセンチメンタルなAOR~ソフト・ロック的な14曲目“Lost But Never Alone”やら、鳥の声や笛の音、チェロのような弦楽器の音などで構成された抽象的な16曲目“Wave Idea”など、エモーショナルながらも、流れで聴いていくとどこか掴み所がなくコロコロと曲調が変わっていく。そして、物憂げで美しいメロディーと歌を聴かせる17曲目“Nothing’s Special”に身を委ねると、気づけば〈放送終了〉を知らせる合図のようなサウンドとともに、フッと終わってしまうのだ。

『Magic Oneohtrix Point Never』収録曲“Lost But Never Alone”

こうして聴いていくと、今作はまるで、このコロナ禍において移ろう彼の心そのものの写し鏡のようだとも言えるだろう。それは、彼自身、〈癒し〉だとか〈頭が良くなる〉だとか、何か特定の有用性があるとされる音楽を度々否定していることからもわかるように、彼を語る上で引き合いに度々出されるニューエイジやヒーリング・ミュージックとはまるで異なるものだ。今作を聴き、彼の心の動きに触れたなら、私たちの中には何か得も言われぬ感情が沸き起こる。そしてまた、いつも全く同じような感情が機械的に起こるというものでもない。少なくとも筆者は、自分の状態に応じて、聴くたびに、少しずつ違った気持ちにさせられた。

そう、だからこそ、OPNは限りなく〈ポップ〉である、と言えるだろう。歌があるから、メロディーがあるから、という形式の話ではない。それを聴いた誰かのその時々の精神状態、そこから発生する解釈を、懐深く受け止める。OPNは「音楽が彫刻や文学のようなものになっていったとしても、音楽は誰にでも楽しめるものとして存在することができる」というブライアン・イーノの考え方に影響を受けているようだが、まさにその普遍性こそが、今作に宿っている〈ポップさ〉の源泉なのだと思わされる。

コロナ禍の自主隔離期間のOPNは、他者とのコネクションのツールとして、やはりラジオを聴いていたらしい。すなわち、今作制作時の彼にとっては、ラジオは社会へ通ずる窓であったのだ。今作は、言ってみれば、そこから聴こえてくる、機械の音も、人の声も、全部ひっくるめた、〈声〉を使った、ポップ・ミュージック作である。OPN=ダニエル・ロパティン自身のパーソナルな感情を、時代の声とクロスさせながら紡ぎ出す、という意味においては、とても奇妙な形をした、現代のある種のフォークロアでさえあるのかもしれない……というのは、ちょっと言い過ぎかもしれないが。

少なくとも今作は、ポップであるがゆえに、その受け取り方は、これまで以上に聴き手である我々に委ねられている。この普遍性こそ、一見奇天烈なクリエイターであるOPNが、その音楽制作へ向かう動機として、初めから抱えていた原点なのだということを、今作に発見したのであった。

 

門脇綱生が遡る、ミレニアル世代のカルト・アイコン=OPNの歩み

日頃から中毒的にSNSへと深く潜り込んでは、夜な夜な実生活のフラストレーションと理不尽さへの鬱屈をリフレッシュ……リフレッシュ……リフレッシュ……。

ここでは、現代の都市生活のなかでインターネットと現実の境界が曖昧になりがちな私たち〈ミレニアル世代〉のリスナーのカルト・アイコンといえる稀代の音楽家、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー=ダニエル・ロパティンのキャリアを振り返っていこう。

旧ソ連時代のロシアにルーツを持つユダヤ系移民の子どもとして、82年に米国のマサチューセッツ州で生誕した彼は、ロシア系の血も引いているだけあって、ソ連やロシアについての知識が豊富だ。また芸術的な映画作品をオタク的に愛好している彼は、「惑星ソラリス」でも知られるソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーやスタンリー・キューブリックなどに深く入れ込んでいる。

Windows 98発売時に16歳だった彼もまた〈ミレニアル世代〉であり、「仲間内でも一番のインターネット少年」と誇らしげに語る彼は、2000年代の黄金期のインターネットをリアルタイムで体験している。過去のインタビューで「昔のブログが懐かしいよ……」とボヤき、「私たちは物語やアイデアといった夢を見る力や言語の深みを失ってしまった」と嘆いていたけれども、ロパティンは決してそれだけでは終わらせなかった。

チャック・パーソン名義を用い、テン年代以降のサウンドのひとつを規定することになる画期的手法〈エコージャム〉を発明した『Chuck Person's Eccojams Vol. 1』(2010年)では、過剰なスクリューやループ、ディレイのなかで、ジャネット・ジャクソンやTOTOなどのアーティストの楽曲、つまり大量生産・大量消費された過去の遺物を切り貼りし、作品化。多くのインタビューでも語るように、ロパティンはネット上およびリサイクル・ショップに打ち捨てられた〈ゴミ〉や〈ジャンク〉に惹かれてきた。そして、退廃やシニシズム、キッチュといったロパティン特有の芸術的言語でこれらを調理した本作は、インターネットの深みでたむろするナードたちを熱狂させることとなった新ジャンル〈ヴェイパーウェイヴ〉の誕生へと大いに貢献した。

ところで、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーという通り名の誕生は、2007年に〈Magic Oneohtrix Point Never〉名義で発表した記念碑的デビュー・カセット『Betrayed In The Octagon』にまで遡る。同作は、タンジェリン・ドリームやクラスターら70年代のジャーマン・エレクトロニクスへの憧憬を胸に秘めた新世代の〈シンセシスト〉たちが犇めいた、00年代後半からのシンセサイザー・ミュージック・リヴァイヴァルの脈を代表する傑作のひとつだ。

2007年作『Betrayed In The Octagon』表題曲

こちらは、兄弟作である『Zones Without People』、『Russian Mind』と共に初期ベスト的編集盤『Rifts』(いずれも2009年)に収録。『Rifts』には、他にも入手困難な初期音源(古いものは2003年!)の数々がコンパイルされている。また2012年の再プレスでは、過去名義の〈KGB MAN〉やLPからの貴重な音源も追加されていて、彼の初期作品群を堪能するための理想的なガイドとして自信を持ってレコメンドしたい。

チャック・パーソン名義でヴェイパーウェイヴの原型『Chuck Person's Eccojams Vol. 1』を発表した2010年、現行電子音楽の一大聖地エディションズ・メゴから、実験音楽が大きな変容を遂げていくテン年代の到来を祝福した傑作『Returnal』 を発表し、OPN名義でもロパティンは大きな飛躍を見せた。本作は、現代的な電子音響~リヴァイヴァルされるニューエイジ~ヴェイパーウェイヴといった、テン年代以降のサウンドを規定していくOPNの、進撃の起点ともいえる重要な作品である。こうしてロパティンは、ワープ周辺のクラブ・ミュージック勢が電子音楽の覇権を握っていたなかで、カセット/CD-Rカルチャー出身の作家としてエレクトロニック・ミュージック~電子音響の聴取感覚の更新へと挑んでみせた。

2011年には、自身のレーベルであるソフトウェアを設立し、出世作として名高い『Replica』を発表。『Chuck Person's Eccojams Vol. 1』におけるアプローチをベースに、80~90年代のTVコマーシャル音源をカットアップ/コラージュ。恐ろしくキッチュでデカダンな香りがぷんぷんと漂う『Chuck Person's Eccojams Vol. 1』に対して、こちらはよりメランコリックで耽美的な仕上がりだ。そして、不思議とポップで親しみやすい。

2011年作『Replica』表題曲

そして次作『R Plus Seven』(2013年)では、遂にワープから目を付けられることに。のちのOPNのフル・アルバムはすべてワープの寵愛のもとで発表され、彼は名実共に同レーベルの代表格へと登り詰めていった。

 

そのキャリア中でもひときわ異彩を放つ出来事が、サウンドガーデンやナイン・インチ・ネイルズとのジョイント・ツアーではないだろうか? 彼がその体験に触発されて産み落としたのが、OPN諸作でも高い人気を誇る『Garden Of Delete』(2015年)。前述したバンドたちのライブに見た〈音楽産業〉への衝撃と、彼らが奏でていた〈むっつりした、気難しい音楽〉のギャップはロパティンへと巨大なインスピレーションを与え、彼はサウンドガーデンのアルバムのカセットを買った13歳の頃の記憶へと遡ることに……。

同作のインターネット・プロモーション・キャンペーンでは、10代のニキビに覆われたエイリアンのエズラが登場している。彼は、この企画で登場したカオス・エッジという創作バンドのガイド/指南役的な存在であった。そこから「自分にとってエイリアンというのは〈思春期を体験してる10代の子たち〉の究極のメタファーじゃないか」と思い立ったロパティンは、思春期の子どもたちのグロテスクさや不安、グランジ、青春といったキーワードを、自身の記憶とリンクさせ、創作を交えながらトラウマティックに照らし出す。

2015年作『Garden Of Delete』収録曲“Animals”

同作は過去最大級にパーソナルな世界観に貫かれているのみならず、ロック的な衝動が大いに滲んだアルバムでもあり、電子音楽以外のリスナーにとっては、彼の音楽の最良のガイドともいえる一枚だと思う。個人的にはリアルタイムで初めて意識的に触れた彼の作品というのもあって、この意匠とサウンドへの憧憬は今なお僕のエクスペリメンタル・ミュージック観の軸のひとつだ。

2017年には、サフディ兄弟監督の犯罪スリラー映画の 「グッド・タイム」のサウンドトラックへと携わり、イギー・ポップとのコラボを実現。カンヌ国際映画祭でサウンドトラック賞を受賞したことも記憶に新しい。2019年にも、同監督が手掛けた犯罪映画「アンカット・ダイヤモンド」の音楽をダニエル・ロパティン名義で担当しているのだけど、ナンと本作にはウィークエンド(!)が本人役で出演している……。

2018年には、2年もの歳月を費やした渾身のアルバム『Age Of』をリリース。アノーニやジェイムズ・ブレイク、イーライ・ケスラー、プルリエントなど、ジャンルの垣根を越えたユニークな面々を起用しているところもとても意欲的だ。〈ポストモダン・バロック〉と評されている同作では、初めて他のミュージシャンをOPN自身の音楽の世界に招き入れた。そして、自身のヴォーカルを初めてフィーチャーしている点にも注目したい。

2018年作『Age Of』収録曲“Black Snow”

『Age Of』には、その世界観をさらに深く読み解くヒントともいえるマルチメディア・インスタレーション〈MYRIAD〉が付随し、ニューヨークのパーク・アベニュー・アーモリーにて初演された。これは往年の仕事仲間であり、ヴィジュアル・アーティストのネイト・ボイスが発案したもので、彼を始め、『Age Of』に参加しているイーライ・ケスラー、ワープのレーベルメイトであるケリー・モーランといった面々やダンサーが参加。変形スクリーンなどのテクノロジーを駆使し、ヴィジュアル表現の極限に挑戦するエキサイティングな企画となっている。ここでは、ロパティンはMIDIキーボードの後ろから静かにパフォーマンスを先導し、『Age Of』収録曲たちの更なる深みへと聴衆を招き入れることとなった。〈MYRIAD〉の模様の一部は下の動画で見られるので、是非ともチェックしてみて欲しい。

〈MYRIAD〉公演の模様とOPNへのインタビュー

 

樋口恭介が本作を題材に綴る、新たな物語=記憶「Long Road Home」

『Magic Oneohtrix Point Never』収録曲“Long Road Home”

これは私的な記憶の反復、あるいはこれから出会う新たな思い出のための、ささやかな練習として書かれている。

*

私はこの原稿を2020年の10月19日に書いている。仕事を終えて、駅の喫茶店でコーヒーを飲み、ヘッドフォンで音楽を聴きながら、ときどき思い出したように少しずつ、パタパタと指先のキーボードを鳴らしている。今は夜の10時。原稿は進んでいないが、そろそろ家に帰らなければ、と私は思っている。私はコートを羽織り、席を立ち、会計を済ませて外へ出る。

コートのポケットの中には、去年聴いてそのままにしていたカセットプレイヤーが入っていて、中には見たことのないカセットが入っている。たぶん、一度か二度だけ聴いて、それがどんな音楽だったのかも、そもそもそんなカセットを買ったことすらも、忘れてしまっていたのだろう。

私はヘッドフォンを耳にかけて、それから再生ボタンを押す。カセットテープからはどこかのラジオ放送の録音が流れ始める。それは懐かしい音楽のような気がしたが、なんの曲かはわからなかった。私はそれを、どこかで聴いたことがあるような気もしたし、そうではないような気もした。私はその音楽を聴きながら歩き始めた。

*

全ての音楽は偶然の音楽である。偶然は混信の比喩で語ることもできる。ダニエル・ロパティンはそのことを知っている。

*

ダニエル・ロパティン。一般にはワンオートリックス・ポイント・ネヴァーの名で知られる。彼は記憶の作家であり、混信の作家であり、そして混信する無数の記憶を提示し続ける作家である。それは、2007年にリリースした『Betrayed In The Octagon』(『Rifts』所収)から、最新作『Magic Oneohtrix Point Never』に至るまで変わらない、彼の本質的な特徴である。

ダニエル・ロパティンは自身の記憶を切り刻み、何度も断片を並べ替え、それを、再帰的に見いだされた、一つの整合性のある物語として語り直す。たとえば幼少期の記憶。風景。音楽。イメージ。存在しない思い出。不可能なノスタルジー。雨粒。ガラス戸を叩く音。それとも泥のついた黄色い長靴。水たまりに映る街灯の光。静かに炸裂する、線香花火の炎。

存在しないラジオが、存在しない記憶を語り始める。

*

ところで、私は普段、出かけるときに音楽を聴くことが多い。私は歩いて移動するのが好きだが、仕方なく電車に乗ることもある。だから私は歩きながら音楽を聴き、電車の中で音楽を聴く。聴く音楽はノイズやアンビエントやドローンが多い。それらに共通して言えるのは、いずれも静けさを湛えた音楽であるということだ(ノイズの熱心なリスナーには理解いただけると思うが、ノイズとは、本質的に静かな音楽である)。それらの音楽は静かなものであるがゆえ――さらには私が使うヘッドフォンが安物であることもあって、純粋な作品それ自体として聴くことは決してかなわず、絶えずヘッドフォンの外で鳴り続ける無数の音と混じり合う。

静かな音楽は、まるで交通事故のような偶然の出会いを許容する。あるいはそれは、交通事故のような偶然の出会いをあらかじめ想定しているとさえ言える。そこには落ち葉を踏む私自身の足音もあれば、国道を抜けてゆくトラックのエンジン音、地下鉄のホームでしゃべる高校生たちの声、あるいは嬌声や怒声、何かを引きずる音や何かを引き裂く音、何かが破裂する音なども含まれる。高い音もあれば低い音もあり、中くらいの音もある。大きな音もあれば小さな音もある。音程感やリズムのある音もあれば、そうでないものもある。それらの音が入り混じり、つねに作品と干渉し合い、私の中に、そのたびごとにかけがえのない、固有の体験を生んでいる。

こんな話もある。大学生の頃、私は毎日ニコニコ動画をながめて過ごしていた。私は〈歌ってみた〉とか〈演奏してみた〉といったタグをたどって延々動画を再生し続け、気に入った動画のプレイリストを作っていった。そこには、覚えたばかりの楽器を使って、曲とも言えない曲を奏でる、名もなき少年や少女たちがいた。演奏はお世辞にもうまいとは言えず、曲の質も音の質も、市場に出回る商業音楽とは比べるべくもなかったが、彼らの演奏動画には、商業音楽にはない、生生しい魅力があった。それは、市場という制度が設ける優劣の基準によって刈り取られる前の、技術以前の技術であり、文化以前の文化であり、むきだしの生そのものだった。私はそれらの動画を愛していた。私は名前も知らない楽曲の、名前も知らない作家たちを愛していた。

その頃のプレイリストは今はない。その頃観ていた動画はもう、作家自身の手によって削除されてしまったからだ。彼らのアカウント名ももちろん覚えてはいないし、たぶん消えてしまっているだろう。私は彼らの曲のことを、彼らの演奏のことを、彼らが残したコメントのことをよく覚えているが、もう二度と聴くことはないだろう。けれど、それでいいとも私は思う。

 

ダニエル・ロパティンの音楽を聴いていると、そんなことを思う。とりとめのない記憶。思い出が生み出す思い出。来歴を失った、異質なものたちが織り成す空間。

*

引用の織物という言葉がある。その言葉の定義はもう忘れてしまったものの、その言葉が喚起するイメージは私の創作と強く結びついている。だから、私にとって自画像とは、世界の像にほかならない。

私は私の文章を、私によって書いているのではない。私によって書かれる言葉の全ては引用であって、引用の中には出典不明なものも多く含まれる。世界は書かれたものとして既にあり、私は既に書かれた世界に囲まれている。私はそれを読み、読んだ言葉を書き写しているだけだ。私にとっての創作とはつまるところ、既にある世界を異なる順序で読み替えて、それを日本語に移し替えることにほかならない。

私が生まれて初めて書いた物語は、どこにでもある大学ノートに、無数の中古の本の断片を、ただ書きつけただけのものだった。それは中学生の頃だったと思う。その頃の私は毎日家の近くのブックオフに通い、100円コーナーの棚に敷き詰められた本を片っ端からカートにつっこみ、親にねだって買ってもらっていた。私はそれらの本たち、表紙が黄ばみ、手垢にまみれてボロボロになったそれらの本たちを手に取り、気に入った文章を片っ端から書き写していった。

書き写すのが面倒なときはページを破り、そのままノートに貼り付けた。ノートに何枚もの本のページを貼り付けていくと、ノートは当初の何倍にも膨れ上がった。そうしたノートが何冊も積み重なった。ノートが無くなると、ノートの上からまた書き始め、書き始めた上から破ったページをまた貼り付け、その上からまた書き始めた。物語を書き終える頃には、盗んだ文章の元の持ち主が誰かなんて、もうわからなくなっていた。

*

そんなことが本当にあったかどうかは定かではない。今思い出されるものは今思い出されているものでしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。全ての記憶は、事故のような偶然の中で作られ、そして思い出されるつど、ふたたび事故のような偶然を引き連れてくる。

*

ダニエル・ロパティンは2007年、セルフケアのために表現活動を開始した。当時の彼は、一日のうちの大半の時間を、やりがいのない、単純で反復的な作業に費やしていた。彼はネットワークから遮断されたコンピュータの前で、永遠のようにも思える長い時間を、ただ硬い椅子の上に座り、上司からの指示を待ち、ときどき表計算ソフトに数字を打ち込むことで過ごした。家に帰り、彼は自分自身を確認する作業として、ポップソングのメロディーをただ単に引き伸ばしたり逆再生したりしただけの断片を作り、ときどきそれをネットの片隅にアップロードするようになった。

私はその頃の彼のことは知らないが、知っていないとも断言できない。むしろ私は、現在のダニエル・ロパティンが作る音を介することで、今は存在しないその頃のダニエル・ロパティンと、あたかも友人のように出会い直し続けることができる。そんな実感を持っている。

*

私はこの原稿を2020年の10月17日に書いている。カットソーの上にカーディガンを羽織り、キーボードに向かって文章を打ち込んでいる。気温は12度で、先日までの暑さが嘘のようだった。今は朝の10時。外では雨が降っていた。私はクローゼットの中から厚手のコートを取り出して、シャツの上からそのまま羽織った。コートのポケットから、プラスチックがぶつかるような音が鳴った。

確認すると、中にはカセットプレイヤーが入っていて、開くと見たことのないカセットテープが入っていた。たぶん、一度か二度だけ聴いて、それがどんな音楽だったのかも、そもそもそんなカセットを買ったことすらも、忘れてしまっていたのだろう。
私はヘッドフォンを耳にかけて、それから再生ボタンを押した。

カセットテープからはどこかのラジオ放送の録音が流れ始めた。懐かしいような音楽が流れていた。なんの曲かはわからなかった。私はそれを、どこかで聴いたことがあるような気もしたし、そうではないような気もした。私はその音楽を聴きながら歩き始めた。家からの長い道のり。それは、家までの長い道のりでもある。私は音楽を聴き、私は小説を読み、私は忘れ、私は思い出し、そして私はまた忘れ、忘れてゆくものたちの中で、私は文章を書いている。

雨の中に音が溶けて、滲んで、それから街の中へと消えていった。そうして私もまた、街の中へと入り込んでいった。