〈ここがどこなのかどうでもいいことさ/どうやって来たのか忘れられるかな〉。これは73年に細野晴臣が発表したソロ・デビュー・アルバム『HOSONO HOUSE』に収録された“恋は桃色”の一節だ。そこには、同時代に流行した四畳半フォークの世界――地に足をつけて半径数メートルの悲哀を歌う世界――とは対照的に、〈いまここ〉の磁力から自由でありたいという意志が表れている。

その後に細野が歩んだキャリアを概観してみても、やはり常に〈ここではないどこか〉への憧憬に衝き動かされて音楽を作ってきたように感じられる。あるときはアメリカ、あるときは南の島、というように。それは総じて、エキゾティシズムとでも呼ぶことができるだろう。本作『Heavenly Music』においても、作品を駆動させる原動力はやはりそうしたエキゾティシズムだ。

だが一方で、細野の憧れの対象はここにきて変化してきている。いままでは〈地理的に遠く離れたところ〉がその対象だったとすれば、本作において憧れの眼差しが注がれているのは〈時間的に隔たっているところ〉だ。時間的に隔たっているところ。しかしそこは別に、輝かしい未来などではない。むしろ細野の興味をひいているのは、すでに失われてしまった過去である。かつてのアメリカ。かつての日本。そして、かつての自分自身。

これを単なる懐古として片づけるのは、早計だ。ここでの細野は、かつてあったはずの風景を経由して、その延長線上に〈現在の自分自身〉を見い出し、把握しようとしている。失われてしまった過去へのノスタルジーという強烈な感情はときとして、地理的に遠く離れた場所や輝かしい未来への淡い憧れの感情よりも、もっと具体的にみずからの現在地を教えてくれる。細野はおそらく、そのことを直感的にわかっている。だからこそ、時間をさかのぼるようにして過去の名曲をカヴァーする営みを〈内面への旅〉と形容するのだろう。それはまぎれもなく、現在的な行為である。

本作はほとんどがカヴァー、それも細野にとって憧れの対象であり続けている古き良きポピュラー音楽たちのカヴァーで占められている。しかしそのフレッシュで摩訶不思議な音像は、聴き手が安易にノスタルジックな気分へ浸ることを許さない。実際、私も本稿を書くに際して改めてアルバムを聴き直したとき、その音像のモダンさに驚かされた。そこには、細野が数年来そのサウンド・プロダクションを称賛し続けているジョー・ヘンリーや、近年のUSインディー・シーンを語るうえで外せないプロデューサー/ギタリストであるブレイク・ミルズらの音像に通じる、独特の奥行きが感じられる。

そんな本作のアナログ盤がこの度、〈レコードの日〉を機にリイシューされた。アナログ盤はそのレトロなヴィジュアル・質感から、しばしばいわゆる〈ノスタルジー消費〉の対象にされている。だがそもそもアナログ盤は、セピア色の思い出などとはほど遠い、生々しい媒体である。それは再生されるたびに、録音当時の空気や作家の執念といったものをまるごと現在に蘇らせる。そうした意味でアナログ盤こそが、テーマとサウンドの両面にわたる本作のアクチュアリティーを最も鮮烈に感じさせてくれる媒体だと言えるだろう。