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今回は俺がコンプラ

 自身のルーツである地元大阪・西成の街はもちろん、世の移り変わりも一歩引いて眺め、時に喝を入れ、檄を飛ばす姿は、独立を経たからこそ表現できたものでもある。

 「俺が行ける思ったら行けるっていうのが俺らの看板。(例えば)関西弁では〈アホ〉と〈バカ〉の使い方一つでも間違えたら強く聞こえたりしますやん。そういう説明が要る歌詞は変えるときもいままではあったけど、今回は俺がコンプラ。自分で責任持って自由にさしていただきますってことで、いま喋ってる口語がラップになればいいと思ってるし、それが俺のめざす最終形でもあるんで」。

 その「口の悪さと育ちの悪さ」は、西成の街に育てられた彼ならでは。「ヤクザ(“893”)も歌えるし、クソガキ(“クソガキ”)って言える」アルバムは、表も裏もある西成の街が歌わせたものに他ならない。

 「監視カメラじゃなく、いろんなおっちゃんおばちゃんらの目が行き届いて成り立ってる街で俺は育ったんで。しょせんいろいろ動いてもお釈迦さんの手の上やった、人生そんなもんやでみたいなことを大人が軽く教えてくれる街では、ヤクザも街の一キャラ。いろんな価値観があって、それで救われる命もあるし、ホンマに」。

 「西成の三角公園に集まるおっちゃんおばちゃん、車イス引いてるじいちゃんばあちゃんのご夫婦らがいきなり来てもちょっと歌えるぐらいの音楽」を、というコモリタカシとの会話から生まれたタイトル曲。「〈俺なんか〉とか、〈私なんて〉とかいう気持ちを経験したことがあるみんなの希望」と評するRed Eyeとの共演が、和な音使いのSPIN MASTER A-1のビートと共にアルバムを加速させる“うしろきいつけや”。そしてNORIKIYOを通じての出会いがアルバムを作る活力にもなったと話すKOYANMUSIC制作の“893”をはじめ、その延長にSHINGOの生い立ちが映る“ママクライパパダイ”。さらには第三者的な目を借りて人や社会を見通す“ブイ”や、SATUSSY(韻踏合組合)との“唾を吐いた少女”……そうしたなかにあって、〈何もないとこからはじめたのをわすれない〉と歌う“Nothing”は〈いつ死んでもいい〉覚悟と感謝、希望を示すアルバムの核だ。さらけ出す胸の内と、自身の背中をも押す言葉一つ一つがまっすぐ届く。

 「せっかく貰った命や時間をどう使うか気づかなあかんし、ええ音楽もっと聴いたほうがいいし、やりたいことはやったほうがいい。だってみんな幸せになるために生まれてきてんから。足枷付けられた思いで、ずーっと何かの契約でお金を払い続けなあかん、そんなために生きるよりはいいと思う」。