ブラジル音楽のアンバサダーとしてのセルジオ・メンデスの功績を称える
セルジオ・メンデスは1941年リオデジャネイロ州のニテロイに生まれた。お父さんがお医者さんで裕福な家庭に育ち、自宅にピアノがあったので小さい頃にはクラシックを習っていた。1958年にボサノヴァが生まれリオやサンパウロで注目を集める。同じ頃に北米からジャズがリオへ届くと、ブラジルの若者たちはより刺激的でスイングの魅力に溢れたジャズの虜になった。そしてリオのコパカバーナ地区にあったベッコ・ダス・ガハーファスと呼ばれた飲屋街では、夜な夜なボサノヴァの曲を材料にしてジャズのような即興演奏を繰り広げるサンバ・ジャズと呼ばれる音楽のセッションが行われていた。
そんなセッション・メンバーの中の一人がセルジオ・メンデスだった。彼はそこでの活動が認められて、録音の機会を得ることができた、彼のファースト・アルバム『ダンス・モデルノ』(1960)は当時のブラジルでは受けの良いラテンジャズ的な内容の作品だった。
その後に、ボサノヴァの魅力に誘われてアメリカのオーディオ・フィデリティというレコード会社がボサノヴァのアーティストたちに声をかけて、1962年11月にニューヨークのカーネギーホールでのボサノヴァ・コンサートを企画する。トム・ジョビン、ジョアン・ジルベルト、ホベルト・メネスカル、カルロス・リラ、そしてセルジオ・メンデスも自分のグループ、ボサ・リオ・セクステットとともにステージに上がった。客席は超満員で寒空の下に入りきれない人がホールの外に溢れていたという。
ニューヨーク滞在中にセルジオはサックスのキャノンボール・アダレイに知り合い、共演アルバム『キャノンボールズ・ボサノヴァ』(1963)を発表した。ブラジルに帰国後の1964年4月にクーデターが起こり独裁政権となってしまう。そこでセルジオは活動の拠点をアメリカにすることを決めて、新たに〈ボサノヴァ’65〉を結成。新人女性歌手だったワンダ・サー。そして女性ギタリストのホジーニャ・ヂ・ヴァレンサを抜擢。ベースにはセバスチャン・ネト。ドラムスとパーカッションはシコ・バテーラと優秀なミュージシャンを揃えて『ボサノヴァ’65』(1965)リリース。典型的なボサノヴァ作品だったが、残念ながらアメリカでは売れなかった。仕事も断られたり散々な目に遭って、メンバーは失意のうちに帰国。アメリカに残ったセルジオは新たなグループを結成しなくてはいけなくなってしまう。
そんな中、セルジオがたまたま出かけたライヴハウスで歌っていたの弱冠19歳のラニ・ホールだった。ラニのをヴォーカルをとても気に入ったセルジオは新しい自分のグループのヴォーカルは彼女しかいないと心を決めて彼女の家まで赴き、父親に話をしてグループ参加の許可を得る。ベースとドラムとパーカッションはアメリカ国内で探して揃えることができた。そして彼の中では女性シンガーをもう一人入れるというアイデアがあり、そのためにブラジル人の女性シンガーでのちに俳優にもなったビビ・ヴォーゲルを入れて、女性ヴォーカル2名にピアノ・トリオ+パーカッションという編成で〈セルジオ・メンデスとブラジル’66〉の誕生だ。