©Makito Umekita

7年ぶりのオリジナル・アルバムは世界にも伍する快心作だった!

 ジャズ・ピアニストの桑原あいにとってこの作品は、世界レヴェルの大飛躍をもたらす1枚になる……と、そんな予感がした。めくるめく高速で音符を舞い踊らせ、テンポやリズムを交錯させ、不思議な浮遊感を伴って豪快にそのタッチを飛び交わせる。この演奏力は幼少より全国制覇を続けてきたエレクトーンから得た技術だが、作曲におけるそれは自分自身を高尚なアーティストと見せかけるための、空虚な装飾であったと今なら告白できる。

 「あの頃は素の自分を誰にも見せず、日常生活と完全に切り離された状態で作曲するというナゾの生き方をしていました。〈アーティスト桑原あい〉が書いてくるような曲を、桑原あいが無理をして書く。これを演じ続けているとプツンと糸の切れる音がして、そこからまったく何も書けなくなっていました。ある出来事をきっかけに一度はこのスランプも破られそうでしたが、目の前に続く暗闇から完全に抜け切るには相当な時間を要することになります。ただ長いトンネルを彷徨う中で一瞬閃いたのが5年前、3曲目“ザ・デイ・ユー・ファウンド・アス”のメロディのほんの一部のカケラでした」

桑原あい 『Flying?』 Verve/ユニバーサル(2025)

 2014年.モントルー・ジャズ・フェスティバルのピアノ・コンペに出場した時、そこにいたクインシー・ジョーンズから魔法の言葉をかけられる。生きていく経験がその人の音を作るのだと知らされるのである。その後も2016年のNY録音で、小学生時代から憧れてきたスティーヴ・ガッドやウィル・リーから重要な啓示を受け、ゆっくりと創作における独自の解釈は焦点を結んでいった。飼い犬への愛情から生まれた5年前の“ザ・デイ・ユー・ファウンド・アス”はしかしそのきっかけに過ぎず、堪らず行動を起こしたのが昨年のLA移住である。

 「8年前にクインシーのプロダクションが主催するLAでの企画ライヴに誘われ、そこで魅力的なアーティストたちと出会いました。彼らと共演することで、踏み出せない最後の一歩がどこにあるのか知れる気がして、急かされるようにパートナーと愛犬を連れてのLA移住を決めていました。そこでどうしても再会したかったのが、サム・ウィルクス(エレクトリック・ベース)とジーン・コイ(ドラムス)の8年前に出会った2人だったんです」

 新譜『Flying?』で、桑原とメインでタッグを組んだ2名。地元ローカルから独特の切り口で人気を得たインディ系ベーシストのウィルクス。上原ひろみ Hiromi’s Sonicwonderで日本でも一躍その名を広めたオーガニック系ドラマーのコイ。移住の混乱でも心の拠り所となってくれた両名の、そこで交わした音が8年前と何も変わらず、熱いハグで再会を祝うことになる。そして初の試練は1月のあのLAにおける、ひと月にわたる大規模な山火事だった。

 「南米に、小さな鳥がその嘴に含んだ水を一滴ずつ、燃え盛る山へ落としていくという童話があります。6曲目“ホワット・ハミングバーズ・ティーチ・アス・アバウト・フライング”はその、レイ・チャールズの伝記映画にも象徴的に登場する〈ハチドリ〉が引っ越し先の庭へやってきた時の創作。久しぶりに1曲を書きあげられたあの感動は、今も忘れません。そんな自宅も結局山火事で避難の対象に入りますが、住民たちは各々でレスキューに走り各々が自分にできることをしている。まさにあの童話が伝えようとしたことの実践でした。マイケル・ジャクソンの8曲目の“ヒール・ザ・ワールド”は、演奏家の私にもできる小さな救済…初めこの曲を取り上げることには二の足を踏んだのですが、私も〈ハチドリ〉になろうと。ホレス・ブレイ(ギター)のギターも迎えて、やはりLAコミュニティで個性を発揮する彼のためにアレンジをしました」

 イントロのミュート・ギターは山が呼吸する様子を表わしているのだという。そしておそらくファンを驚かせるのは、レッド・ホット・チリペッパーズの曲に今の彼女の志向する音を、人目もはばからず全編に詰め込んだ “パラレル・ユニバース”だ。そんなLA/桑原ver.に、今回の大いなる脱皮が世界へ向けられたものであったのを確信させられる。

 


桑原あい(Ai Kuwabara)
1991年生まれ。洗足学園高等学校音楽科ジャズピアノ専攻を卒業。これまでに10枚のアルバムをリリースし、JAZZ JAPAN AWARD 2013アルバム・オブ・ザ・イヤー、第26回ミュージック・ペンクラブ音楽賞、JAPAN TIMES上半期ベスト・アルバム(ジャズ部門)など受賞多数。またモントルー・ジャズ・フェスティバルや東京JAZZ、アメリカ西海岸ツアーなど国内外を問わずライヴ活動を精力的に行う。2024年、拠点をアメリカ・ロサンゼルスに移し、新たな活動をスタートさせている。