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映像の色調で〈夏〉そのものを描く

本作には語るべき魅力がいくつかあるが、1つにはREMEDIOSによる音楽の美しさが挙げられる。麗美の名で活躍していたシンガーソングライターによる匿名性の強いソロユニットで、静謐で透明感のある音楽(アンビエントやミニマル的要素もある)が映像と見事にシンクロしている。とりわけ夜のプールの場面で流れる“Forever Friends”は、英語詞ながら細やかな詩情に溢れた名曲。のちのアニメ版におけるDAOKOのカバーも原曲に忠実だったことからも、いかに普遍性のあるナンバーなのかがわかるだろう。

そして、なずなを演じた奥菜恵の神懸かり的な美少女ぶりも本作には不可欠の要素だろう。切ないほどの可憐さと憂いを持った彼女の存在なくして、この映画は決して成立することはなかった。岩井俊二はもともとアーティストのMVなどを手掛ける映像作家だったのだが、見方を変えればこの作品は、当時14歳だった奥菜の姿をフィルムの中に永遠に封じ込めた、珠玉のプロモーションビデオという捉え方もできなくはない。

でも今回は音楽でも奥菜でもない、この映画が描く夏について考えてみたいのだ。私的には「打ち上げ花火~」は徹底して〈夏という季節〉にこだわっているからこそ、いまだに名作として語り継がれていると思っている。それは一体どういうことなのか。

これは僕だけに限らないと思うが、10代の頃の夏はなによりも待ち遠しく大切な季節だった。いま思えばそれは〈夏休み〉という特権的な時間を与えられていたからなのだろうけど、当時の自分はそんなことに気付く由もない。

すっかり大人になってしまった現在では、夏はとにかく暑くて気だるい困ったシーズンである。ただ、それでも他の四季にはない妙なノスタルジーをいまだ感じてしまうのは、子供の時分にしかなかった夏休み(そしてそのとき体験した夏祭りや夏合宿や花火や恋心など)の仄かな記憶が残っているからに違いない。だからこそ夏とは、〈もう決して戻らない〉という一回性を強く感じてしまうやるせない季節でもあるのだ。

夏には始まりがあり、終わりがある。それは他の季節に比べるとずっとコントラストが強くて明確だ。この映画はそんな夏の刹那的な特性を、ビートルズで言うところの“A Day In The Life”に凝縮して描いている。

典道や祐介たちの視点から見たその一日は、朝の登校に始まり(初夏)、遊びと競争の昼、冒険の夕方を経て(盛夏)、祭りが終わる夜で幕を閉じる(晩夏)。この変化がわかりやすく窺えるのが映像を彩る色調で、時間が経つにつれて金色→橙→群青→漆黒というグラデーションを描きながら終わりに近付いていく。ようは「打ち上げ花火~」で描かれた時間は単なる夏の一日ではなく、縮図化された夏そのものなのである。