タワーレコード新宿店~渋谷店の洋楽ロック/ポップス担当として、長年にわたり数々の企画やバイイングを行ってきた北爪啓之さんによる連載〈聴いたことのない旧譜は新譜〉。そのタイトル通り、本連載では旧譜と称されてしまった作品を現在の耳で新譜として紹介していきます。
第15回は、タワーレコード渋谷店内で営業中のショップインショップ、パイドパイパーハウスの店主である長門芳郎さんに登場していただき、〈1976年の細野晴臣〉というテーマでお話を伺いました。北爪さんを聞き手に、当時誰よりも近くで細野さんを支えてきた長門さんが名演/名盤の裏側を語ります。 *Mikiki編集部
長門芳郎が見た50年前の細野晴臣
今回は趣向を変えて、いまから50年前、1976年の細野晴臣をめぐる貴重なインタビューをお届けしたい。1976年と言えば、今年6月24日に『HARRY HOSONO & TIN PAN ALLEY IN CHINA TOWN』としてステレオ版が初めてアナログリリースされた伝説の中華街ライブが開催され、畢生の名盤『泰安洋行』が発表された年である。
今回は、当時ティン・パン・アレーや細野のマネージャーとして企画・制作に深く携わっていた長門芳郎に、中華街ライブの詳細や『泰安洋行』にまつわるエピソードなどを語っていただいた。
なお奇しくも今年は、長門が店長を務めるレコードショップ、パイドパイパーハウスがタワーレコード渋谷店内にショップインショップとして復活オープンしてからちょうど10年という節目の年でもある。
中華街ライブは細野晴臣の音楽を体験として伝える場だった
北爪啓之「まず、中華街ライブについてお伺いします。長門さんの当時のメモを元に作成されたスケジュール表を見ると、1976年4月23日に最初のミーティングを行ったとあります。本番は5月8日ですから、かなり直前のタイミングで準備が始まったイベントだったんですね」
長門芳郎「そうですね。4月25日に新しいシングル『北京ダック/ブラックピーナッツ』の発売が控えていて、その後7月25日に『泰安洋行』がリリースされるので、もうアルバム制作も進んでいた頃です」
北爪「前年の6月25日には、いわゆる〈トロピカル3部作〉の1枚目となる『トロピカル・ダンディー』が発売されています」
長門「その頃の細野さんは、はっぴいえんど解散後のデビューソロアルバム『HOSONO HOUSE』によってシンガーソングライター的なイメージが定着していたんです。でも『トロピカル・ダンディー』では、そこから大きく方向性が変わった。その変化に驚いたファンも多かったですね。1975年10月に目黒区民センターでコンサートをやったときも細野さんはベースを弾かず、ステージ中央に置いたマリンバを演奏しながら歌っていたのだけど、終演後に知り合いの音楽ライターから〈細野さん、どうしちゃったの?〉と言われたのを覚えています」
北爪「音楽関係者でも戸惑いが隠せなかった」
長門「そう。だから僕としては、細野さんが本当にやりたい音楽を皆にきちんと理解してもらう必要があると思ったんです。そのためにはまず多くの人に届けなければならないので、音楽を体験として伝える場を作ろうと考えた。それが中華街ライブを企画した理由でした」
北爪「つまり、新しい細野さんの音楽性を理解してもらうためのプレゼンテーションの場だったわけですね」
長門「はい。リスナー1人1人に直接説明することはできないですから、まずは音楽ジャーナリストやレコード店の担当者、あるいは文化人など、影響力のある人たちに体験してもらう。その人たちが理解してくれれば音楽も次第に広がっていくと考えたんです」
北爪「当時の資料では長門さんの肩書はディレクターとなっていますが、実際にはどんな役割を担っていたのでしょうか?」
長門「クラウンが提示してくれた予算の範囲内でどうイベントを作るかを考えて、会場の手配、ミュージシャンのブッキング、楽器搬入、PAや照明会社との打ち合わせ、それに当日取材に入ったテレビ朝日の『ニューおもしろ倶楽部』という番組との連携まで、制作全般のほとんどを担当しました。でも、もちろん全部を1人で考えたわけではなくて、細野さんと僕を中心に日笠雅子さんにも加わってもらって、会場の雰囲気作りや観葉植物の配置など、演出面でも意見を出してもらいました」
北爪「日笠さんはYMOの初代マネージャーとして知られている方ですよね。中華街ライブの頃からマネジメントを務めていたのですか?」
長門「いや、最初は違います。日笠さんは『オールナイトニッポン』のアシスタントをしていたのだけど、僕が『トロピカル・ダンディー』のプロモーションでニッポン放送に行ったときに知り合ったんです。彼女が細野さんの熱心なファンだったので事務所に入ってもらうことになりました」
格式ある料理店を無国籍な空間に
北爪「会場の演出についても3人で考えたのでしょうか?」
長門「そうですね。アイデアのきっかけになったのは、1975年にヴァン・ダイク・パークスがハリウッドで行ったカリビアンショーの話でした。僕がそのショーを実際に見たわけではないけれど、頭の中でなんとなくイメージを膨らませていった感じですね。
会場の同發新館は横浜中華街のなかでも格式ある料理店でしたが、そのままの内装では『トロピカル・ダンディー』や『泰安洋行』の世界観と違う。だから、中国でも日本でもない、どこの国か分からないような無国籍の空間を作ろうと思ったんです。観葉植物を大量に配置し、壁面は映画撮影所から借りたよしず※で覆いました。とにかく、お客さんが入った瞬間に〈いつもの中華街とは違う〉と感じてもらいたかったんです」
※編集部注 映画やドラマの撮影時に使われる日よけのこと
北爪「演出は視覚だけではなかったそうですね」
長門「“北京ダック”では赤い照明やサイレンの効果音を使い、“ハリケーン・ドロシー”ではテレビ局から借りてきた大型送風機で風を起こしてね。さらに香水を送風機で飛ばして、香りまで演出に取り入れました。音だけではなく、照明、風、香りを含めて、その世界に入ってもらうことを考えたんです」
北爪「まさに五感で体験するイベントだったわけですね」
長門「そう。細野さんの音楽を〈聴く〉だけではなく〈体験〉してもらいたかった。料理、空間、照明、演出、その全部を含めて細野さんの音楽世界を伝える。それまでにない時間を作りたかったんです」
北爪「その場に集まった人たちは、コンセプトを理解していたのでしょうか?」
長門「最初から全員が理解していたわけではないでしょうね。先ほど話したように〈細野さん、どうしちゃったの?〉という反応が当時はまだありましたから。だからこそ音楽ジャーナリストやレコード店の方、文化人などに来てもらったんです。
谷川俊太郎さんや三枝成彰さんには招待状を持って直接説明に行ったし、加藤和彦さんや安井かずみさんにも来ていただいた。このイベントは単なるライブではなく、細野さんが新しく向かっている音楽を体験してもらうためのコンベンションだったわけです」
大学院生だった坂本龍一など歴史的ライブを支えたミュージシャンたち
北爪「続いて、出演したミュージシャンについて伺いたいと思います。この時のメンバーを見ると、『トロピカル・ダンディー』や『泰安洋行』のレコーディングに参加したミュージシャンが中心になっていますね」
長門「基本的にはその時期に細野さんのレコーディングに関わっていたミュージシャンを中心に集めました。当時レコーディングメンバーを手配する場合は、ミュージシャンの斡旋を専門にしていたインペク屋さんを通すことが一般的でした。でも細野さんやティン・パンの仕事では、できるだけ僕が直接ブッキングしていたんです。普段から付き合いのある人たちばかりだったので」
北爪「中華街ライブの出演者も、長門さんが1人ずつ声をかけていった?」
長門「そう。リズムセクションだけじゃなく、村岡建さんをはじめホーンセクションの人たちにも直接お願いしましたね」
北爪「結果的に、このライブの出演メンバーを見ると豪華な顔ぶれですよね。鈴木茂さん、林立夫さん、田中章弘さん、矢野顕子さん、浜口茂外也さん、そして坂本龍一さんも参加されていますが、まだYMO結成前ですよね」
長門「坂本さんが一般的にはまだあまり知られていなかった時期ですが、僕は荻窪ロフトでブッキングをやっていた頃から彼とは付き合いがあったので。当時はまだ大学院生でしたが、その頃から独特の音楽性を持った人でした」
北爪「坂本さんの参加が決まったのは、かなり直前だったそうですね」
長門「もともとキーボードは佐藤博さんを予定していたけれど都合が付かなくて。急遽坂本さんにお願いしたのはリハーサル開始の10日くらい前だったと思います。でも彼はすぐ対応してくれたし、細野さんの音楽への理解も早かった」
北爪「振り返ると、その後のYMO結成に繋がる重要な場だったようにも思えますね」
長門「そうかもしれないですが、でも当時は歴史を作ろうなんて考えていたわけじゃないですから。細野さんがやろうとしている音楽を形にするために必要な人たちを集めただけ、という感じでした」
矢野顕子と佐藤博の新作も取り上げた〈パラダイス・ツアー〉
北爪「中華街ライブの後、6月24日から〈パラダイス・ツアー〉が始まります。このツアーは『泰安洋行』の発売へ向けたプロモーションという位置付けだったのでしょうか?」
長門「そうですね。アルバムの発売は7月25日ですが、その頃にはもう『泰安洋行』へ向かう流れはできていましたから。だから〈パラダイス・ツアー〉はその新しい音楽を広く知ってもらうためのものでした」
北爪「ただ、細野さん1人を前面に押し出す形ではなかったのですね」
長門「そう。ちょうど佐藤博さんの『Super Market』も発売されたばかりだったし、矢野顕子さんのデビューアルバム『JAPANESE GIRL』もリリース直前でした。だから、この3人の作品をまとめて紹介できるような構成にしようと考えたんです」
北爪「それぞれのアルバムを同時にアピールする場でもあったわけですね」
長門「矢野さんも佐藤さんも、単にバックミュージシャンとして演奏してもらうだけじゃなくて、それぞれの見せ場をちゃんと用意しました。その上で細野さんの新しいトロピカル路線を見せる、そんな構成でした」
北爪「当時のフライヤーを見ると、ティン・パン・アレーでも細野さん単独名義でもないですものね」
長門「細野さんを中心にしながらも、〈ティン・パン・ファミリー〉みたいな感覚でしたね」
『泰安洋行』のリリースとトロピカル路線に影響を与えた人物
北爪「そして7月25日に『泰安洋行』が発売されます。タイトルは長崎にあった雑貨店から取られたことで知られています。細野さんは当時のインタビューでも長崎の街が好きだと話されていますが、そのあたりは長崎市出身の長門さんの影響もあったのでしょうか?」
長門「多少はあるかもしれませんね。最初ははっぴいえんどを長崎に呼んでコンサートを開催したんです。その後、細野さんと一緒に仕事をするようになってからティン・パンの〈ファースト&ラスト・コンサート・ツアー〉で改めて長崎や佐世保へ行きました。そのとき初めて街をじっくり見たんじゃないかな。少なくとも僕が長崎へ連れて行かなければ、『泰安洋行』というタイトルにはなっていなかったでしょうね」
北爪「アルバムのクレジットには長門さんのお名前が〈アシスト〉とあります。これは実際にはどんな役割だったのでしょう?」
長門「副プロデューサーのような感じですね。当時は日本では〈コ・プロデューサー〉という言葉があまり一般的じゃなかったから、クラウンがそういう表記にしたんじゃないかと。参加ミュージシャンのブッキングは基本的には僕が行っていました」
北爪「この頃の細野さんが影響を受けた人物として挙げられるのが、のちの東京ロッカーズの中心人物でもあるS-KENこと田中唯士さんですよね」
長門「そう。田中さんは細野さんと同い年なんですが、世界中を旅してジャマイカなどカリブの音楽を持ち帰ってきていました。彼は細野さんにそうした音楽のカセットテープを渡していて、僕も車の中でよく聴かせてもらいましたね。もちろんマーティン・デニーなんかは細野さん自身も知っていたけど、田中さんが持ってきた音楽や情報は、あの頃のトロピカル路線に影響を与えたと思います」
北爪「『トロピカル・ダンディー』ではA面だけだった異国趣味が、『泰安洋行』でアルバム全体へ広がっていったわけですね。当時としてはかなり風変わりなアルバムだったと思いますが、周りの反応はいかがでしたか」
長門「もちろん異色ではあったけれど、まったく売れなかったわけじゃないんですよ。当時の売上メモが残っているんですが、鈴木茂さんの『BAND WAGON』、細野さんの『トロピカル・ダンディー』、ティン・パン・アレーの『キャラメル・ママ』はどれも2万枚前後売れていたので、『泰安洋行』もそれに近い枚数じゃなかったかなと思います。当時としては健闘していた数字ですが、前年の全国ツアーと〈パラダイス・ツアー〉の影響もあったと思いますね」
〈パラダイス・ツアー〉を終え、それぞれの道へ
北爪「長門さんは、その〈パラダイス・ツアー〉が終了した頃に細野さんのパーソナルマネージャーになられたそうですね」
長門「そうですね。その頃にティン・パンのマネジメント事務所が解散したこともあり、細野さんと僕でトロピカル探偵社という小さな事務所を始めました。もっとも、長くは続きませんでしたが」
北爪「翌年にはまた新たな事務所を立ち上げたのですよね」
長門「そう。1977年の夏だったか、細野さんから〈山下(達郎)くんもいま事務所がないようだから、声をかけて一緒にやらないか〉という提案がありました。以前、僕はシュガー・ベイブのマネージャーをやっていたのだけど、ティン・パンの仕事に専念するために辞めています。そのことを細野さんが気に掛けてくれていたんだと思います」
北爪「山下さんも賛成してくれたのですか?」
長門「はい。細野さんがウィルパワーという事務所名を付けてくれて。山下さんに吉田美奈子さんも加わって、僕と日笠さんでマネジメントを担当しました。ただ、優れた才能を持った3人のマネジメントを2人だけで受け持つのは少々無理があった。僕にビジネスの才覚があれば違っていたかもしれませんが、結局ウィルパワーも短命に終わってしまったんです」
北爪「パイドパイパーハウスで働き始めたのはその頃でしょうか?」
長門「パイドはもともと初代店長の岩永正敏さんたちが1975年に始めたお店なんです。僕もオープン当初から品揃えのアドバイスなどで関わってはいたけれど、正式スタッフとして加入したのは1977年の12月ですね。それで細野さんのマネジメント業務は日笠さんに引き継ぐことになりました」
北爪「細野さんがアルファレコードへ移籍するのも同じ頃ですよね」
長門「そうですね。僕はアルファとの契約がまとまるところまでは見届けたけれど、その後の制作活動には深く関わっていないんです。ただ、細野さんは僕との関係を大切にしてくれて、『はらいそ』のクレジットに名前を残してくれました」
細野さんの音楽を1人でも多くの人に知ってほしかった
北爪「長門さんは1970年代当時から、海外のミュージシャンに細野さんの音楽を紹介されていたのですよね」
長門「細野さんの音楽は日本の中だけで完結するものではない、という感覚は当時からあったと思います。さすがに現在のような評価になるとは思っていなかったですが」
北爪「直接音源を渡していたのですか?」
長門「『トロピカル・ダンディー』と『泰安洋行』をカセットテープにコピーして渡していました。ジョン・セバスチャンはウッドストックのラジオ番組で紹介してくれたし、リヴォン・ヘルムやジェフ・マルダーにもテープは渡っています。実現しなかったけれど、マリア・マルダーが細野さんの“ルーチュー・ガンボ”をカバーするなんて話もありました。結局テープはマリアからビル・ワイマンを経てエリック・クラプトンまで渡ったようです」
北爪「人から人へと伝わっていったわけですね。その意味では、結果的に長門さんが細野さんの音楽と海外のアーティストを繋ぐ橋渡しの役割を果たしていたとも言えますね」
長門「何か大きな海外プロモーションをしたということではないんです。ただ、細野さんの音楽は、聴く人が聴けばきっと面白さが分かると思っていました。カリブの音楽やハワイアン、ニューオーリンズ、エキゾチカなどいろいろな音楽を吸収しながら、それを日本人の感覚で調理しているわけですから」
北爪「インターネットが普及した現在では、世界中の若い人たちの間でも細野さんの音楽が聴かれています」
長門「マック・デマルコやデヴェンドラ・バンハート、ハリー・スタイルズのような世代の人たちから支持されているのは嬉しいですね」
北爪「少し大げさかもしれませんが、1970年代に長門さんが撒いた種が、いまあちこちで花開いたようにも思えますね」
長門「いやいや(笑)。僕はただ、細野さんの音楽を1人でも多くの人に知ってほしかっただけなんですよ」
PROFILE: 北爪啓之
1972年生まれ。1999年にタワーレコード入社、2020年に退社するまで洋楽バイヤーとして、主にリイシューやはじっこの方のロックを担当。2016年、渋谷店内にオープンしたショップインショップ〈パイドパイパーハウス〉の立ち上げ時から運営スタッフとして従事。またbounce誌ではレビュー執筆のほか、〈ロック!年の差なんて〉〈ろっくおん!〉などの長期連載に携わった。現在は地元の群馬と東京を行ったり来たりしつつ、音楽ライターとして活動している。NHKラジオAM「ふんわり」木曜日の構成スタッフ。




