世界的なディスコ・ブームで隆盛を極めつつ、その終焉と共に崩壊を迎えたレーベル、ミッドランド/ミッドソング・インターナショナル。時代の徒花では片付けられないその魅力を、今回の一挙リイシューで再確認してみましょう!

 キャロル・ダグラスの“Doctor’s Orders”(74年)とシルヴァー・コンヴェンションの“Fly, Robin, Fly”(75年)を筆頭に世界的なヒットを数多く送り出し、70年代半ばからのディスコ・ブーム隆盛を謳歌したレーベルのひとつ、ミッドランド・インターナショナル(後にミッドソング・インターナショナルに改称)。74年にNYで設立され、80年に消滅したこのレーベルは、ディスコ・ブームと運命を共にした〈時代の徒花〉というイメージもあってレーベル単位で語られることはほぼなかったが、そんななか今回は主要作品の大挙リイシューが実現! 世界初CD化のタイトルや久しぶりの復刻となる作品も多くあるため、この機会に太く短かったレーベルの歩みを簡単に振り返っておきたい。

 ミッドランド・インターナショナルは、もともとブッダの副社長を務めていたボブ・レノと音楽プロデューサーのエディ・オロフリンが74年に共同設立したNYの独立系レーベルである。当初はポップス/ロック作品を扱っていた彼らがディスコに着目したのは、UKでヒットしていたサニーというシンガーの“Doctor’s Orders”に目を付けたことがきっかけ。これをUS市場向けにディスコからヒットさせるべく、オーディションで選んだキャロル・ダグラスの歌唱でディスコ・カヴァーさせたところ、全米11位(ソウル・チャート9位)という大ヒットを記録したのだ。こうしてレーベルを軌道に乗せると、翌75年にはドイツのシルヴァー・コンヴェンションを発掘。彼らの“Fly, Robin, Fly”もディスコ中心のプロモーションからヒットに至り、こちらはついに全米1位まで獲得。しかもドイツのグループとして初めてグラミーの〈最優秀R&Bパフォーマンス〉部門を受賞するという破格の成功を収めたのだった。

 シルヴァー・コンヴェンションは全米2位まで上昇した“Get Up And Boogie (That’s Right)”などヒットが続き、レーベルもソウル系からユーロ・ディスコ系まで契約アーティストを増やして規模を拡大。注目すべきは74年にデビューしていた俳優/シンガー、ジョン・トラボルタの“Let Her In”(76年)が全米10位のヒットとなったことで、これが映画「サタデー・ナイト・フィーバー」(77年)公開前だったことを思えば、当時のレーベルの勢いも窺えるだろう。

 ただ、77年には同名の老舗ラジオメーカーと商標権をめぐる訴訟となった結果レーベルは(出版部門の社名を転用して)ミッドソング・インターナショナルに改名する。そのあたりが運気の曲がり角だったのか、配給の変更などレーベルの内実も大きく変化していった。この頃になるとディスコ・ブームはより大衆的なものへと肥大化しており、爛熟状態のシーンで二枚看板のキャロル・ダグラスもシルヴァー・コンヴェンションもヒットを出し続けることはできず、レーベルの勢いはどんどん失速していった。そんな状況にダメ押ししたのが、79年夏から巻き起こったロックDJたちを中心とするディスコ排斥運動〈Disco Sucks〉だ。これによってディスコのバブルは一気に崩壊し、ミッドソングも80年に閉鎖となったのである。

 なお、その後のオロフリンはNYでネクスト・プラトーを設立し(キャロル・ダグラスも合流)、ソルトン・ペパやシビルらを人気者に押し上げた。レーベルをメジャーに売却した後はトミー・ボーイのヘッドA&Rを務め、ネクスト・プラトーを再興した00年代にはニーナ・スカイを世に出してもいる。

 いずれにせよ、さまざまな偏見が取り払われているであろう昨今、時代の流れのなかで花を咲かせた彼らの功績もそろそろ再評価されていい頃だろう。

さまざまなレーベルのディスコ名曲を集めたコンピ『DISCO一直線 MASTERPIECE OF DISCO』(OCTAVE-LAB)