今から40年前となる1986年のオリコン年間シングルチャートを制したのは、石井明美の“CHA-CHA-CHA”だった。イタリアのダンスグループ、フィンツィ・コンティーニの同名曲を日本語でカバーしたもので、ドラマ「男女7人夏物語」の主題歌に起用され大ヒットを記録した。
そんな“CHA-CHA-CHA”をはじめ、荻野目洋子の“ダンシング・ヒーロー(Eat You Up)”、森川由加里の“SHOW ME”、Winkの“愛が止まらない ~Turn it into love~”など、1980年代中盤は洋楽の日本語カバーが雨後の筍のごとく生まれ、一時代を築いたと言っていい。
今やほとんど消えてしまった洋楽の日本語カバー。歌謡曲史におけるその文化の盛衰を、ライターの久保田泰平に再考してもらった。 *Mikiki編集部
1980年代の洋楽ヒットがもつエモーションとマッチした大映ドラマ
歌謡曲とは、音楽のジャンルですらない。言うなれば「日本そのもの」の似姿であるかのような、同国のポピュラー音楽のありかたを表した概念にほかならない。西洋を中心とする海外のポピュラーソングの枠組みを借りてこしらえた「日本語歌詞の商業音楽のすべて」が、基本そっくりのまま、歌謡曲となり得る。
──川﨑大助・著「教養としてのパンク・ロック」(光文社新書)より
日本のポピュラーソングはその昔から、時々の新しい海外産音楽を取り込みながらアップデートされてきました。そして、それが日本の音楽として現地化される(歌謡曲する)過程のなかで、楽曲を〈カバー〉するという作業をたびたび踏んできた……そう、本項でフォーカスする1980年代にも。
欧米で興ったパンクロックやニューウェイブの影響は、1980年代に突入すると徐々に歌謡曲にも表れはじめます。あるいはYMOの影響と言ったほうがいいかも知れません。とは言っても、職業作家がこしらえたもののほとんどは、シンセサイザーによる上モノを纏った程度でした。ただ、そういったトライ&エラーの合間を縫って、パンクやニューウェイブの影響下にあるバンドがメインストリームにのしあがり(一風堂やRCサクセションなど)、バンドサウンドのもつ(もしくは洋楽っぽい)アタックの強い音質が歌謡曲の主流に流れ込んでいくというかたちで、影響を及ぼしていきました。
洋楽の日本語カバーということでは、実際のところ目立ちはじめたのは1983年頃から。この年の10月からスタートしたテレビドラマ「スチュワーデス物語」のテーマ曲が、同年の大ヒット映画「フラッシュダンス」の主題歌を日本語カバーした麻倉未稀“ホワット・ア・フィーリング ~フラッシュダンス”で、同じく大映テレビ制作のドラマ主題歌はその後も洋楽カバーが続きました。
MIE“NEVER”(オリジナル:ムーヴィング・ピクチャーズ)、麻倉未稀“RUNAWAY”(ボン・ジョヴィ)および“ヒーロー HOLDING OUT FOR A HERO”(ボニー・タイラー)、葛城ユキ“ハートブレイカー”(パット・ベネター)、椎名恵“今夜はANGEL”(映画「ストリート・オブ・ファイヤー」の劇中曲)、松居直美“TALK TO ME”(クォーターフラッシュ)などなど。大映ドラマの大仰なストーリー展開が、1980年代の洋楽ヒットがもつエモーションとマッチしたということでしょう。
そうこうしているあいだに、オメガトライブや安全地帯、REBECCA、BOØWY、バービーボーイズなどのバンドがチャートを賑わすようになり、(言い方に違和感を覚える人もいるかも知れませんが)ロックというものの一部が完全に歌謡曲のなかのサブカテゴリーに収まっていきました。
荻野目洋子“ダンシング・ヒーロー(Eat You Up)”が取り込んだ〈ハイエナジー〉
そんななか、ポップスの最先端を生み出してきたディスコシーンに新しい波がやってきます。〈ハイエナジー〉と呼ばれるそれは主にヨーロッパで盛り上がり、ソウルやファンクをベースにしたかつてのディスコミュージックとは異なる、言わばディスコを電子化したもの。代表的なアーティストと言えばデッド・オア・アライヴでしょうか。
ハイエナジーはほどなくしてメロディーの際立ったユーロビートや、ハウス、テクノに進化していったわけですが、その後のクラブミュージックの風景を変えたということで重要な意味をもったハイエナジーを、歌謡曲を進化させていくうえでも取り込まない手はない!……と実際に言ったかどうかは定かではありませんが、1985年11月に荻野目洋子が“ダンシング・ヒーロー(Eat You Up)”をリリースします。歌謡曲とダンスミュージックの関係は1970年代ディスコブーム以来しばらく縁遠くなっていましたが、ここで復権したと言ってもいいでしょう。荻野目ちゃん自身も初のTOP10入りヒットを手にしました。
高揚感あるダンスビートと日本人にもすんなりと受け入れられるメロウ感をもったユーロビートは、荻野目ちゃんのブレイクをきっかけにカバーするシンガーが増えていくのですが、おいそれとは歌えない。やはりダンスにしろ、歌唱力やリズム感にしろ、ある程度しっかりとしたコじゃないとキマらないわけで。ダンシングヒロインに適った荻野目ちゃんは“ダンシング・ヒーロー”でイメージを刷新したあと、ダンスビートを基本路線にヒットを続け、そのテイストで染め上げたアルバム『NON-STOPPER 荻野目洋子 “The BEAT” Special』を翌1986年12月に発表します(そして1987年の年間アルバムチャートでNo.1に)。
荻野目ちゃんのヒットが種蒔きとなって、1986年夏以降はまさにユーロビートをはじめとする洋楽日本語カバーの隆盛期でした。石井明美“CHA-CHA-CHA”(フィンツィ・コンティーニ)、石川秀美“LOVE COMES QUICKLY 〜霧の都の異邦人〜”(ペット・ショップ・ボーイズ)、長山洋子“ヴィーナス”(バナナラマ)、少女隊“君の瞳に恋してる”(ボーイズ・タウン・ギャング)などなど。
1987年に入ると、早見優が“ハートは戻らない”(レディ・リリィ)で3年ぶりに「ザ・ベストテン」にランクインしたほか、松本典子“KEEP ME HANGIN’ ON 〜誘惑を抱きしめて〜”(キム・ワイルド)、そしてBaBeのデビュー曲“Give Me Up”(マイケル・フォーチュナティ)がリリースされています。数で言えばそんなに多いわけではないけれど、荻野目ちゃんのみならずカバーを取り上げたシンガーにとってのブレイク曲になったりすることが少なくなかったので目立っていた印象もあります。とくに石井明美“CHA-CHA-CHA”はテレビドラマ「男女7人夏物語」の主題歌ということでドラマの人気にも乗って大ヒット。1987年の「男女7人秋物語」の主題歌になった森川由加里“SHOW ME”(カバー・ガールズ)もそう。
1988年にはルベッツのヒット曲(1974年作)をユーロ調に仕立てたカバー“Sugar Baby Love”でWinkがデビュー。彼女たちはその後も“愛が止まらない 〜Turn it into love〜”(カイリー・ミノーグ)、“涙をみせないで 〜Boys Don’t Cry〜”(ムーラン・ルージュ)などカバーヒットを立て続け、果ては国産ユーロビート“淋しい熱帯魚”を大ヒットさせるなど、もはや歌謡曲がユーロビートを完全に呑み込んだことを実証しました。
洋楽の日本語カバーブームが残したものは……
近年は許諾関連のわずらわしさや金額的な問題、それ以前に許諾不可といった状況もあって、洋楽の日本語カバーというのもほとんど聴かれなくなりました。あの頃、とくに1980年代半ばのユーロビートカバーの隆盛期は、適当な日本語詞を乗せても許されていたようだし、レディ・リリィとかフィンツィ・コンティーニとかカバー・ガールズとか、日本語でカバーされたから名前が知られたといった類いのアーティストの楽曲は、きっと許諾もラクで安価だったのかも知れません……いや、そうだったのでしょう。
それゆえに、1988年に松浦勝人がエイベックス・ディーディー(現・エイベックス)を設立し、ユーロビートを主としたレコードの輸入卸売業をはじめて成果を上げることができたわけだし、1990年には立ち上げたばかりのレーベルavex traxから『SUPER EUROBEAT』シリーズのリリースを開始。現在も続く人気コンピレーションになったわけです。
ハイエナジー/ユーロビートの現地化は、その時期の歌謡曲に新しいスタイルを与えただけでなく、長いスパンで音楽産業に大きな影響を及ぼした、振り返れば結構大きな事件だったんじゃないかと思います。

