ATAK、30番目のアルバムで迎える渋谷慶一郎の臨界点=クリティカルポイント

 ナマ、半ナマとくれば、お次はウェルダンとなりそうだが、本稿においてはエレクトロニクスが正解である。むろん食べ物の焼き加減のことではない。音楽の音の態様を表している。ナマとはピアノなどのアコースティック楽器による生演奏、半ナマは生楽器と電子音の共存したサウンド、そこに方法としてのノイズやインスタレーションなどを含むエレクトロニクスを加えた三つのスタイルが、自身の活動では自然に循環するのだと渋谷慶一郎はいう。

 なるほど、明確な規則性こそ見出しがたいが、『ANDROID OPERA MIRROR』『Berlin』『xxxHOLiC』『Midnight Swan』と、ATAKの近作を番号の若いほうへ遡るだけで、渋谷の先の発言の大意はつかむことはできる。AI搭載のヒューマノイドロボットと、もっとも西洋音楽的で人間中心主義的な形式である歌劇との融合をはかるアンドロイドオペラ、2008年のベルリンの芸術祭のために制作した楽曲の16年越しのリエディット版、後半2作はともに映画のサウンドトラックだが、電子音楽とピアノソロと、性格を異にする。もっともいずれの作品も渋谷慶一郎の署名があるからには旋律と一音の強度において端倪すべからざるものがあり、たがいに響き合い、星座的な布置をとるかのごとき興趣がある。

 『Threshold』という聞き慣れない題名をもつアルバムもその一角をなす作品といえるであろう。本作はNHKのドキュメンタリーシリーズ「臨界世界 —ON THE EDGE—」のために制作した膨大な楽曲群を元にした、いうなればサウンドトラックだが、個々の楽曲は特定の情景や記号に対するライトモチーフの役割を担うわけではない。ドキュメンタリーの定石ではあるが、この番組も録音時、取材対象こそ決まれど、映像は未完成で、いきおい作曲家は短い断片や制作側のオーダー――兵士の顔写真とか、悲しみとか歓びといったいくつかのテーマ――に沿って作曲を先行させることになった。本作所収の作品の本格的な録音がはじまったのは2025年1月、翌月初旬にはシリーズ1回目〈中国のハゲタカたち〉が電波に乗っていることからも圧縮した制作環境がうかがえよう。もっとも渋谷には「そういう環境のほうが集中できるからいい」らしく、そういえば『Midnight Swan』のときもスケジュールがものすごくタイトでしたよね、と水を向けると、「今回は記録を更新したかもしれない」とこともなげにいってのける。

 「『Midnight Swan』はピアノソロが基調でしたからスタジオに入って自分で録ることもできました。今回は演奏に生の弦も入っているので、NHKの509スタジオで録音して、ZAKさんとミックスして、ロンドンのメトロポリス・スタジオのスチュアート・ホークスにマスタリングを依頼しました。レコーディング、ミックス、マスタリングを1ヶ月内で完結したんですよ」

渋谷慶一郎 『ATAK030 Threshold』 ATAK(2026)

 上の発言にみえるように、本作は成田達輝、石上真由子ら、アンドロイドオペラのキーパーソンともいえる弦楽器奏者の参加に加え、渋谷もピアノのほかにシンセを演奏し、エディットやポストプロダクションも施している。冒頭の分類法にしたがえは半ナマの作品ということになるが、制作の背景と編成の規模もあいまって、曲調は多様性に富むものになった。

 「サウンドについてはエレクトロニックな響きも必要だろうという予想はしていました。タイトなスケジュールで、世界各地の生々しい現状を描いた映像にたいして音楽をつくるにはモチベーションも高く保つ必要があります。それもあって、このアルバムは、映像のための作品ではありつつも、ソロアルバムの気持ちでつくりました」

 表題の“Threshold”は英語で〈閾値〉の意。それを境に意味や状態が変化するなんらかの値を指す。番組名にもみえる〈臨界〉や、俗にいう〈帰還不能点〉にも似たニュアンスだが、渋谷によれば本作の“Threshold”にはマスタリング時、入力が基準値を超えると音を圧縮するリミッターのパラメーターの意味も重ねている。いわば崩壊と秩序という対極的な力線を包摂し、かろうじて均衡を保つも、一瞬先にどう転ぶか、予断を許さない――、こうした値の近傍は表面的には静的でも、過去から現在にいたる履歴としての歴史と、そこからのリニアな伸展を逸脱する可能性を秘めた、不確定な時間としての未来が激しくせめぎあっている。ときに激越な、しかしきわめてリリカルな本作の、ほとんど両価的な志向性もその反照とみるべきであろう。

 中身に目を転じると、アルバムは表題曲“Threshold”のピアノソロ版で幕を開ける。同曲はピアノ+ストリングス版、さらにシンセなどを加えた完全版と、都合3度登場する本作のメインテーマだが、楽曲の完成は意外なことに、曲作りがある程度進んでからだったという。そこには先に述べたような時間的な制約も、なまなかなテーマでは納得できない作曲家の矜持もあったにちがいないが、状況を打開するためにも渋谷は「今回は弦を用いた楽曲と、弦とシンセの境界が曖昧な音作りを念頭に置いていたから、そういう感じの2、3分の楽曲をどんどんつくっていった」のだという。

 “Sign”はその流れにある楽曲といってさしつかえないであろう。シンセサイザーの羽衣のような広がりのなかに、ストリングスのアンサンブルを配置したこの曲の音響空間ではヴァイオリンの高音部やチェロの持続音は電子音との境界線を喪失していく。曲中で鳴っている弦は生だが、短いコーダでは前のパートで即興的に弾いたシンセをエディットしている。したがって弦は入ってないのだと渋谷はいう。なのに耳はそこに弦の響きを聴き取ってしまう。

 「そう、残像とかね。残像とか残り香とか、そういうものは終わりに向かう世界のなかで人がイメージするものじゃないですか。生の弦が生身の人間だとしたら、その残像、虚構といってもいいけど、そういうものを電子的につくりだすということですよね」

 2曲目の“Cloud”と3曲目の“Friction”も同系列の一作。着想源はリゲティの1972年の“時計と雲(Clock and Cloud)”で、機械的に精確なもの(時計)と渾沌として不確定なもの(雲)を類比させたハンガリー系オーストリア人の作曲家にならい、“Friction”で渋谷はミニマリズムを想起する弦のリフレインと空間全体に充填するようなシンセの響きを併置する。反対に“Cloud”と題した楽曲ではシンセとピアノと弦が重なり合い、潮が満ちるかのような余韻をのこしている。弦楽器の肉声的な響きと打鍵をともなうピアノのメカニカルな音色は元来対照的なものだが、シンセの電子音を媒介に渋谷は本作で、上に述べるリゲティしかり、差異の調停を主眼とする西洋音楽の弁証法を折りたたみ、圧縮する。そのさいの濃度をもって音楽の“閾値”とするのはいかにも整いすぎだが、『Threshold』はそのような文明批評にも還元できない、渋谷らしい醇乎とした美しさがある。

 それを感じさせるのは、ひとつにはピアノの音の清冽さであろう。本作にはこれまで述べてきた各曲、微細な音の粒子が蠢動する“Light”、間欠的なピアノの和音と電子音の皮膜が絡み合う“Gate”、未発表作を改変し、別録りのヴァイオリンとヴィオラを重ねた“War”といった音響実験の側面をもつ楽曲のほかにも、“Sorrow”“One”“Trace”といったピアノ曲も収めている。くしくも坂本龍一の『Opus』と同じNHKの509スタジオで録音したピアノ曲はいずれも渋谷らしい豊潤な旋律だが、はじまりにはATAK初期のグリッジノイズやサウンドインスタレーションと地続きのマッス(塊)としてのサウンドがあった。

 「『Midnight Swan』にしても、なんにしても、最初はメロディをつくるというよりは、ピアノをグシャとクラスターみたいに弾いてもやもやと聴こえてくるなかで、かたちを整えていく感じなんですね。単旋律のメロディをああでもない、こうでもないと捏ねくり回しているわけではないんです。響きにも、てっぺんというか、アウトラインはあるじゃないですか。それがたとえドローンでも一番高い音が人間には聴こえるわけです。それはときにメロディであることもあるし、逆に僕はメロディにノイズを聴くこともある。すごく近いものなんです。そしてその2つはどんどん近くなっている」

 12月には年末恒例のピアノソロコンサートを東京と大阪で開催する。ふたたび冒頭の分類に戻れば、本ナマということになるが、駄弁はさておき、閾値を超えた私たちの耳ははたして、その背後になにを聴きとるだろうか。

 


渋谷慶一郎(しぶや・けいいちろう)
音楽家。1973年、東京生まれ。東京藝術大学作曲科卒業。2002年に音楽レーベルATAKを設立。先鋭的な電子音楽作品からピアノソロ、オペラ、映画音楽、サウンドインスタレーションまで、幅広い領域で活動を行う。東京とパリを拠点に国内外で作品を発表し、これまでにパリ・オペラ座、シャトレ座、ドバイ万博、新国立劇場、サントリーホール、フェスティバルホールなど国内外の劇場を中心に作品を発表。人間とテクノロジー、生と死の境界を作品を通して問いかけている。来年にはヨーロッパで大規模な舞台芸術作品を世界初演予定。

 


寄稿者プロフィール
松村正人(まつむら・まさと)

1972年奄美生まれ。雑誌「STUDIO VOICE」「TOKION」の編集長を経て2009年に独立。著書に「前衛音楽入門」、監修書に「テリー・ライリー完全版」、編著に「捧げる 灰野敬二の世界」「山口冨士夫 天国のひまつぶし」「青山真治アンフィニッシュドワークス」「文藝別冊 高橋幸宏」「文藝別冊 ディアンジェロ」など。
note:https://note.com/p_o_f

 


LIVE INFORMATION
UNPLUGGED
渋谷 慶一郎+菊地 成孔

2026年10月17日(土)神奈川・戸塚区民文化センターさくらプラザ・ホール
開演:18:30

POLA presents Keiichiro Shibuya Playing Piano Threshold
2026年12月15日(火)東京・浜離宮朝日ホール
開場/開演:18:30/19:00

2026年12月22日(火)大阪・ザ フェニックスホール
開場/開演:18:30/19:00

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