2024年12月19日、麹町の紀尾井ホールで開催する〈Keiichiro Shibuya Playing Piano―Living Room〉のプレスリリースによせた「Living Roomについて」と題したアーティストテクストで渋谷慶一郎は「従来の劇場音楽における会場一体となった古典的な緊張感のあり方をステージから揺さぶることは出来ないだろうか?」と問いを投げかけている。劇場ないし演奏会なる場には演奏者とそれを鑑賞するもの、すなわち舞台と客席の厳然たるすみわけが存在し、その枠組に疑義を呈し再考をうながすことは、舞台芸術のながい歴史のなか、ことに近代以降、少なくなかった。彼らはなぜ舞台上でとりすましていて、私たちはそれを眺めつづけなければならないのか――。制度と形式との軋轢をも含み込むこの問題への(正)解を20世紀芸術はついにみいだしえなかったが、しかしそんなものはないのではないか、なくてもよくはないかと渋谷慶一郎は言外にほのめかしている。であるがゆえの「ステージから揺さぶることは出来ないか」との謂であろう。
このことにかんして、このたびの取材で渋谷慶一郎は以下のように述べている。
「観客に〈自由に――〉と謳うコンサートがあったとしても、あまり自由そうには見えないんですよね。たんにダラダラしていたり空気がざわついていたりするだけで、むしろ音楽に集中できていなかったりする。一方で、クラシックのコンサートは緊張感が高くて、みんな集中して聴いていて、僕はそれでいいとすら思うんだけど、なにかちがうことを考えるとしたら、ステージのほうにできることがあるんじゃないかと思ったの。たとえばアンドロイド・オペラは緊張度と集中度がマックスの〈The Show〉という感じだけど、それとは別の弛緩と緊張、極度な緊張感と極度な弛緩が混ざるようなステージはできないのか、ということだよね」
アンドロイド・オペラとは渋谷慶一郎が継続的にとりくむヒューマノイドロボットとのシアターピース。生成AIや密教の声明など、テクノロジーと伝統、過去と未来といった対蹠的な要素を包摂する総合芸術形式=オペラとして、各界の高い評価を得てきた。他方で渋谷には2009年の『for maria』に遡るピアノ独奏の系譜があり、暮れのソロコンサートは年の瀬の風物詩ととらえる向きもある。〈Living Room〉は後者に連なるが、今年で私たちが目にするのはいままでとはちょっとちがう光景かもしれない。というのも今回の渋谷の〈Living Room〉には客人がいる。共演者となる石上真由子は国内外を問わず幾多の演奏会にひっぱりだこの世代を代表するヴァイオリニスト。自身のグループを率い、コンサートの制作も行う石上は今年の6月のアンドロイド・オペラ公演〈MIRROR〉で渋谷との共演もすませている。
とはいえ今回は規模が大きな〈MIRROR〉公演とは異なり〈Living Room〉ではデュオかソロが基本。かかってくる重圧もちがう。そのことを率直に認めながら、しかし石上真由子は楽しみのほうが大きいという。
「アンドロイド・オペラや『for maria』の楽曲をヴァイオリンとピアノ用に書き換えていただいているんです。そういうことができるのが、いま生きている作曲家の方とご一緒できる醍醐味だと思うんです。わからないことがあれば、直接訊けるし、実際に音を出してみてこっちのほうがいいかもとなるかもしれないし、やっているうちにこれもっとできるねって、渋谷さんからご提案いただけるかもしれない。そういったことが有機的で楽しいと思います」
石上の弁を受け、作曲家である渋谷は現代音楽や存命中の作曲家に作品にとりむくのが好きなのがこの世代の特徴だと指摘する。
「成田達輝くんとか、今年のアンドロイドオペラでかかわった人たちはすごくそうで、僕の世代からしたら考えられない(笑)」
一方の石上は出身地である関西は(東京とも)またちょっとカラーがちがうと前置きしたうえで自身の世代観を以下のように述べる。
「バロックも弾くし、古典も、ロマン派も、近代も現代も弾く。どの時代の音楽をやるにも、いろんな時代の音楽をやった経験が必要だよねと考えている世代な気がします。あまり抵抗がないというか。もちろん現代曲で大変な譜面が来たらヒャーみたいなのもありますけど、時代によって抵抗感をもつ人はあんまりいないイメージです」