巨星逝く――日本の風土としての冨田勲
訃報が届いたのは5月8日。亡くなられて3日後の午後だった。その瞬間に仕事の手が完全に止まってしまい、翌日の明け方までただただ茫然と過ごしたのだった。耳に入ってくるのは、仕事部屋の窓際にかかった明珍火箸の風鈴が風に揺れる音だけである。思えば、この風鈴は15年前にご自宅でインタヴュー(本誌の前身であるミュゼの取材)した時に冨田先生からいただいたものだった。先生の自宅リヴィングルームは、四隅と天井にスピーカーを設置した特殊な作りになっており、サラウンド音響に対する熱い思い、その原点となった少年時代の北京天壇公園での不思議な体験のことなど、冨田サウンドの鍵となる様々な話を熱く語ってくださったのを昨日のことのように思い出してしまう。
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私が冨田勲という作曲家の作品に初めて意識的に触れたのは、7才だったと思う。『ジャングル大帝』のテーマ曲だった。このアニメの放映が始まったのは1965年(昭和40)だから、私がちょうど小学校1年生だ。画面上の「富田勲」というクレジット(当時はこう誤記されていた)は恐らく読めなかったはずだが、とにかくそのテーマ曲には心が震え、毎回オープニングをドキドキしながら待っていたのを憶えている。他のアニメ番組の音楽とはまったく異質というか、あまりにもスケールもレヴェルも違う。それは音楽そのものでドラマを描いてしまう、一種の「シンフォニー」だった。大好きなクレイジーキャッツや加山雄三とはまた違う壮大な音楽世界があるということを私に教え、ほどなく熱心なクラシック・リスナーへと導いてくれたのも、今思えばこの『ジャングル大帝』のテーマ曲だったのかもしれない。
その後も冨田さんの作る曲は、随所随所で私の心を強くとらえ続けた。大河ドラマを欠かさず観るようになったのは、オープニング映像と音楽のマッチ具合があまりにも素晴らしかった『天と地と』(69年)からだし、ラジカセをテレビのスピーカーにくっつけて録音した『勝海舟』(74年)のテーマ曲は、カセットテープがビロビロになるまで聴き倒したものだ。あとテレビ・ドラマの音楽で特に感銘を受けたのは、若山富三郎が主演した『唖侍 鬼一法眼』(73年)だ。勝新太郎が歌った主題歌《孤独におわれて》は、冨田さんならではのオーケストレイションにモーグ・シンセサイザーの唸り声が絶妙に絡み、物言えぬ主人公の孤独と激しい復讐心をハードボイルドに表現しきっていた。
音響の魔術師、あるいは電子音楽のイノヴェイターとしてのイメージが強烈すぎるためあまり言及されないが、冨田さんは実は誰よりも、情景や物語と一体化した音楽作りに長けた作曲家だったと思う。その音楽は、時に台詞以上に登場人物の心情を雄弁に語り、物語の時代背景や空気を的確に表現していた。「家康は正確無比に先を読み、決して二度の同じ失敗はしない男、コンピュータ人間ではないか」という考えから大河ドラマ『徳川家康』(83年)のテーマ曲でシーケンサーを駆使したのはよく知られたエピソードだし、山田洋次監督も『たそがれ清兵衛』や『学校』などの仕事で、冨田さんの洞察力のすごさと深い表現力を手放しで絶賛している。最晩年の『イーハトーヴ交響曲』で初音ミクを起用したのも、もちろん、宮澤賢治の世界観、異次元性とミクの親和力という点からのことだろう。オケ回帰の大作『源氏物語幻想交響絵巻 完全版』(2011年)リリース時の取材では、琵琶奏者・坂田美子の京ことばによる語り(六条御息所/生霊)をサラウンドで聴かせることにいかに心血を注いだかを驚くほど熱く語られていたが、それもまた、一つの音/音響が物語全体の深度を決定づけてしまうということを冨田先生が信じていたからにほかならない。
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本質を射抜く音作りという才能がとりわけ効果的に発揮され、多くの人々に愛された最良の例は、やはり『新日本紀行』のテーマ曲だと思うが、それと並ぶ最重要作として、あるいは電子音楽家としての「トミタ」の名を一躍世界広めた記念碑として、『月の光』も忘れてはならない。『月の光』がリリースされたのは74年。当時高校1年のプログレ野郎だった私は同時にドビュッシーにはまっていたこともあり、このアルバムには本当に衝撃を受けた。そこで繰り広げられた雪崩れる虹のような音色と夢想的音響には、ドビュッシーのオリジナル作品以上にドビュッシーの本質が表現されており、初めてドビュッシーを理解できたように感じたのだ。音楽家を志した高校時代から音響的立体感、色彩感を絶えず模索してきた冨田さんにしか表現できないまったく新しい世界がそこには開けていた。
冨田さんとモーグ・シンセサイザーの出会いは、万博の仕事のために滞在していた大阪でウォルター・カーロスの『スウィッチト・オン・バッハ』を聴いたことだが、冨田さんのモーグから作り出される音楽は、ウォルター・カーロスの線的あるいは2次元的なものではなく、ましてや、単なる奇音扱いの60年代モンド系作品とも現代音楽作品とも視点が根本的に違っていた。ここで聴こえるのは電子音だけだが、それ以前に、冨田さんの頭の中で鳴り続けてきた空想のオーケストラの音である。冨田さんは、実際の生楽器では作れない微妙なニュアンスをもった音色や音響やハーモニーを、絵の具を少しずつパレット上で混ぜて試すようにゼロから作りあげ、自分の理想のオーケストラを編成したのである。そういう意味で、これは、電子音楽のネクスト・フェーズを提示して見せた音楽史上の重要作品であると同時に、冨田さんにとっては『源氏物語幻想交響絵巻』や『イーハトーヴ交響曲』など晩年のオケ回帰作のための習作だったとも言えるだろう。
一千万円以上払ってモーグ・シンセサイザーをアメリカから個人輸入し、まったくゼロの状態から一人手探りで音を紡ぎあげていった『月の光』にまつわる様々な苦労話は広く知られていると思うが、私は10回以上おこなったインタヴューの中でも特にこの発言が一番印象に残っている。
「当時はNHKの仕事などが大量にあり、作曲家として最も脂が乗っていた頃でしたが、このアルバムを作るために他の仕事をほとんど断らなくてはならなかった。もう後には引けない。まさに背水の陣。仕事部屋に寝袋を持ち込んで。あの頃、よく同じ夢を見たんですよ。どこかわからないけど岩だらけの入江で、暗い夜の海を沖に向かって舟を漕ぎだしていく。後ろから知っている人たちがついて来るんだけど、しばらくするとどんどんいなくなって、やがて一人きりになって…」
孤独と向き合い、とことん時間をかけ、苦労して作ったものには、技術やセンスだけでは生み出せない強度と妙味が備わるものである。
冨田さんは、『月の光』の後も『火の鳥』『惑星』『バミューダ・トライアングル』『大峡谷』等々、80年代にかけて多くのシンセサイザー・アルバムを発表していったわけだが、いずれの作品にも、鮮やかな光のグラデイションがあり、深い陰影がある。そして匂いもある。テクノ・ポップ全盛の80年代には、冨田作品はあまり話題にのぼらなくなったが、それも当然だったと思う。80年代とは、音楽から陰影や匂いが積極的に消し去られた時代だったのだから。
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冨田勲のいない世界というものを、私はいまだに現実のものとして受け入れることができないでいる。半世紀もの間、冨田さんの音楽は常に身近にあり、意識せずとも自然に耳に入ってきていたから。それはほとんど、戦後日本人の血肉の一部、あるいは文化的インフラの一つにもなっていた。いわば、風土としての大衆音楽。そしてそれは、これからもずっと鳴り続けるはずだ。こういう音楽家を持ちえた私たちは、世界一幸せだと思う。冨田先生、本当にありがとうございました。
冨田勲(Isao Tomita)[1932-2016]
1932年生まれ。東京都出身。作曲家。これまでにNHKの大河ドラマの音楽を5本担当し、手塚治虫のアニメ「ジャングル大帝」「リボンの騎士」など、数多くのテレビ・映画音楽を手がけてきた。1970年頃よりシンセサイザーによる作編曲・演奏に着手し、1974年に米RCAよりリリースされたアルバム『月の光』が日本人として初めてグラミー賞 4部門にノミネートされた。2013年1月、『冨田 勲:イーハトーヴ交響曲(CD)』を発表。「イーハトーヴ交響曲」に続く新作「ドクター・コッペリウス」を制作中であったが、今年5月死去。享年84。
寄稿者プロフィール
松山晋也(Shinya Matsuyama)
1958年鹿児島市生まれ。音楽評論家。ミュージック・マガジン他の音楽専門誌や朝日新聞などでレギュラー執筆。時々、ラジオやイヴェント等での解説、選曲なども。著書「めかくしプレイ~Blind Jukebox」、編著書「プログレのパースペクティヴ」、その他音楽関係のガイドブックやムック類多数。