プリンスの急死がいまだ大きな影を落とすなか、彼の音楽遺産を受け継ぐ日米混合ファンク・バンド、NOTHING BUT THE FUNK(以下:NBTF)が約3年ぶりに再集結。10月13日(木)、16日(日)にBillboard Live TOKYO、10月14日(金)に広島CLUB QUATTRO、10月15日(土)にBillboard Live OSAKAでそれぞれライヴを行う。

日本を代表するグルーヴ・マスター、沼澤尚(ドラムス)がLAに留学していた80年代に、エディ・M(サックス)、カール・ペラーゾ(パーカッション)、レイモンド・マッキンリー(ベース)という、当時のプリンス・ファミリーに重宝された一流プレイヤーたちと意気投合。そこにネイト・マーセロー(ギター)とジョエル・ベールマン(トロンボーン/トランペット)、さらにMr.Children井上陽水といったビッグネームに携わる傍ら、竹村延和の初作『Child’s View』(94年)に参加するなど鋭い音楽センスを発揮してきた森俊之(キーボード)が加わったNBTFは、2000年代初頭から定期的に活動を続けてきた。

80年代にプリンスが開拓して一大潮流となったミネアポリス・ファンクは、その後のポップスやブラック・ミュージックはもちろん、エレクトロやテクノ/ハウスなどジャンルを超えて影響を与え続けている。〈プリンスは世界を変えた〉と追悼文を捧げたのはマドンナだが、いまも世界各地でトリビュート・ライヴが行われるなか、殿下と縁の深いシーラ・E・バンドの新旧メンバーから成るNBTFがこのタイミングで集うのは大きな意義があるはずだ。そこで今回は沼澤&森を迎え、2人と交流のある音楽ジャーナリストの原雅明氏を聞き手にミネアポリス・ファンクの発展史を再考しつつ、NBTFの歩みと公演の展望に迫った。 *Mikiki編集部

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(左から)森俊之、沼澤尚

 

〈こんな人が日本にいるんだ!〉とEW&Fのメンバーも驚いていた

――Mikikiは若い読者も多いので、今回はいまの音楽シーンに紐付ける形でNBTFとミネアポリス・ファンクについて語っていただきたくて。それこそJ・ディラクリス・デイヴの音楽性のルーツを探っていくと、ミント・コンディションジャム&ルイスに辿り着くわけじゃないですか。

※ミネアポリス出身の男性R&Bグループ。ジャム&ルイスが発掘して90年代初頭にデビューを飾り、2010年にはプリンスの〈Welcome 2 America〉ツアーに参加。まだ駆け出しだったクリス・デイヴが、90年代後半から参加していたことでも知られる

沼澤尚「なるほど。そういえばこの間、ミント・コンディションは(プリンスの)トリビュート・ライヴをやってましたもんね。しかも、振り付けつきで(笑)」

――まずはNBTFが結成された経緯を教えてもらえますか?

沼澤「僕がアメリカで活動していた頃に、自分と同じ20代の仲間たちがプリンスやシーラ・Eのバンドで演奏するようになったんです。その83年~85年に僕もチャカ・カーンのライヴに参加していたんですけど、当時のブラック・ミュージックで頂点といえばプリンスだった。80年代でもっとも動員が多かったのは『Purple Rain』のツアーだし、80年代前半はミネアポリス・ファンクの時代で、当時のプリンスはタイガー・ウッズみたいな存在だったんですよ」

――なるほど(笑)。

沼澤「その頃に、僕が仲良くしていたのがエディ・Mやカール・ペラーゾ、レイモンド・マッキンリー、それからキャット・グレイという、プリンスやシーラEの作品/ツアーに参加していた面々でした。それで僕もシーラ・Eのバンドに参加する一方で、自分たちのオリジナルを(NBTFの前進バンド)13キャッツでプレイするようになったんです。バンド自体は3人だけど、多くのサポート・メンバーがステージに立つミネアポリス・マナーを踏襲していたので、エディやレイモンドもツアーに参加していました」

13キャッツのライヴ映像
沼澤、エディ・M、キャット・グレイが参加したLAオールスターズ+シーラ・Eの93年のライヴ映像
 

――キャット・グレイ、カール・ペラッゾと沼澤さんの3人で13キャッツが結成されたのが87年ですよね。森さんと知り合ったのはいつ頃ですか?

沼澤「最初に知り合ったのはShikao & The Family Sugarに参加したときで、〈こんな人が日本にいるんだ!〉と驚きましたね。僕は2000年に帰国するんですけど、その年に開催された佐藤竹善の武道館公演では、バック・バンドを13キャッツのツアー・メンバーが務めていて」

※2007年まで活動したスガシカオのライヴ・バンド。森が音楽監督を務めていた

森俊之「それ、スガシカオと観に行った!」

沼澤「じゃあ、森くんと知り合ったのは99年くらいかな。佐藤竹善の武道館公演は2000年の1月~3月にかけて3か月連続で行われたんですけど、その間にバンド・メンバーがみんな日本にいたので、空いている日にNBTFと名乗ってライヴするようになったんです。それで、最初はキャット・グレイがキーボードを弾いていたんですけど、諸々の事情であまりツアーに参加できなくなって。その頃にアース・ウィンド&ファイア(以下:EW&F)が来日したことがきっかけで、森くんがバンドに加入することになったんです」

「それって2002年だよね、よく覚えてる。ちょうど同じ頃に、(サッカーの)日韓ワールドカップを観に行ったから(笑)」

沼澤「EW&Fからライヴが終わったあとに、〈夜中にセッションできるところないの?〉と訊かれたんですよ。それで、キーボードを探していたから森くんに声を掛けて。ヴァーダイン・ホワイトラルフ・ジョンソンも遊びに来ていたんですけど、その場にいた人たちがみんな森くんのプレイに驚いて。そこから〈アイツとNBTFをやろうよ!〉という流れになり、現在に至るという感じですね」

NBTFの2003年のライヴ映像

 

人力の演奏とマシーンを融合させるセンスが飛び抜けていた

――さっき話に挙がった〈ミネアポリス・マナー〉について、もう少し詳しく説明してもらえますか?

沼澤「プリンスのスタイルに影響を与えたのは、ジェイムズ・ブラウンスライ&ザ・ファミリー・ストーンPファンクにEW&Fですよね。『For You』以前のプリンスはモロにEW&Fだったし。彼のルーツにはファンクがあって、そこにジミヘンビートルズが共存していた」

プリンスの78年作『For You』収録曲“My Love Is Forever”
 

――なるほど。

沼澤「それで、〈ミネアポリス・マナー〉の特徴はゴスペルなんですよ。特に顕著なのがベースラインで、親指やピックで弾くところはモロにそう。それともう一つは、アナログ・シンセサイザーから生まれる80sサウンドというか、最近だとヴェイパーウェイヴの元ネタになったりするような音色ですね。『Parade』以前のプリンスは、オーバーハイムのOB-8しか使ってないですから」

「鍵盤楽器のルーツと言えば、オルガンやローズ、クラヴィネットだった。そこからシンセが普及することで、それまでオルガンでやっていたことをシンセで表現するようになるわけです」

沼澤「それの大元は、やっぱりバーニー・ウォーレルだよね」

「そう、Pファンクですね。そこから黒人のミュージシャンがみんなシンセを使うようになっていく」

沼澤チック・コリアウェザー・リポートといったフュージョンでもアープのシンセが使われていたけど、ファンクでの先駆けはバーニーでしょう。そこからオーバーハイムが、和音を出すことができるアナログ・シンセを開発していて。これぞまさしくミネアポリスの音だよね」

プリンスの84年のシングル“I Would Die 4 U”
バーニー・ウォーレルがファンカデリックの楽曲を演奏するソロ・パフォーマンス映像
 

――ヌメロというオブスキュアな作品ばかり発掘しているアメリカのレーベルが、2013年に『Purple Snow: Forecasting The Minneapolis Sound』というミネアポリス・サウンドを集めたコンピを発表してたじゃないですか。

沼澤「ありましたね、94イーストとかが収録されていて」

『Purple Snow: Forecasting The Minneapolis Sound』に収録された94イースト“If You See Me”
 

――あのコンピには74年~84年までの楽曲が収録されているんですけど、いまの話より少し前に該当するものが大半ですよね。まだオーバーハイムのシンセがなかった頃で、音にもヴィンテージ感がある。

「プリンスも『For You』くらいまでは、そういう感じでしたよね」

沼澤「だから、とにかく機材の普及が大きかった。プリンスの音で一番のキャラクターは、やっぱりオーバーハイムだったと思います」

「それとリンドラムですね」

沼澤「そうそう。初めはDMXというドラム・マシーンを使ってたんだけど、そこからリンドラムを使うようになって。『Purple Rain』ツアーでも、バスドラムと一緒にリンドラムのビートが鳴っていて。そのときの映像を観ればわかるけど、(ドラムスの)ボビー・Zは“Let's Go Crazy”でも〈ボン、ボン、ボン〉しか叩いてない」

「タイム感が必然的にタイトになるんですよね」

沼澤「僕らがシーラ・Eのライヴをやるときも、キックはDMXかリンがずっと鳴っていて、その上で必ず演奏していました。そこでは、NBTFにも参加しているカールがパーカッションとドラムスを担当していたんですけど、彼はスタンディングで演奏するんですよ。立ってドラムを叩いて、足は踏まない。(机をボンボン叩きながら)このビートがずっと鳴ってるから」

プリンス&ザ・レヴォリューション“Let’s Go Crazy”のライヴ映像
シーラ・E“The Glamorous Life”のライヴ映像
 

「そのビートに、オーバーハイムの〈ブワーン〉って伸びた音が入るのがミネアポリス・ファンクの特徴ですよね」

沼澤「だから、当時と同じ機材を使うと一気に80sファンクっぽくなる。プリンスがプロデュースしたバンドも全部そういう音じゃないですか。タイムファミリーヴァニティー6アポロニア6、シーラ・E、マザラティジル・ジョーンズ……」

アポロニア6の84年作『Apollonia 6』収録曲“Sex Shooter”
ファミリーの85年のシングル“High Fashion”
 

――沼澤さんもシーラ・Eのバンドでは、ドラム・マシーンが鳴り続けるなかで叩いていたんですね。

沼澤「そうです、自分はキックも一緒に踏んでましたけど」

――それだと演奏するのも大変だったのでは?

沼澤「でも、それが大前提だったから。みんなが同じようにやっていたし、自分もやらなくちゃいけなかった。そういう時代だったんですよ」

「なかでもプリンスは、人力の演奏とマシーンを融合させるセンスが飛び抜けてましたよね。スライの『Fresh』に“In Time”って曲があるじゃないですか。あそこでポコポコ鳴ってるのは、エース・トーンというアナログのリズム・ボックスで。その後のTR-808とかと違って、まだデジタル・サンプリングされた音ではない。スライはそのビートに、アンディ・ニューマークが叩くデッドでタイトなドラムを重ねていたんですよね。あのへんのグルーヴがルーツにあるはずで」

沼澤「うんうん」

スライ&ザ・ファミリー・ストーンの73年作『Fresh』収録曲“In Time”
 

「そこからリズム・ボックスはエース・トーンからPCMのリズムボックスに取って代わられ、MIDIも普及していく。そこでプリンスは、打ち込みでクォンタイズされたジャストなビートを、生ドラムやベース、ギターといった楽器と合わせることでグルーヴさせたんです」

沼澤「だから、キーボードは絶対に手弾きだったもんね」

「そう、タイトなのはドラム・マシーンだけ。そういう音色とグルーヴ感覚がミネアポリス・ファンクの特徴かなと」

沼澤「そのあとにニュー・ジャック・スウィングが流行り出す頃になると、タイムのジャム&ルイスジャネット・ジャクソンをプロデュースするときにもMPCを手で打ち込むようになって。あとはブレイクビーツやグラウンド・ビートといった、サンプリング・ループが主流になっていった。そこからア・トライブ・コールド・クエストがジャズのレコードをサンプリングすることで90年代のヒップホップを変えて、21世紀以降はJ・ディラのビートがもたらした影響が大きくなっていくと。最近だと、エイドリアン・ヤングはそういった要素をすべて生演奏でやろうとしていますよね」

ジャム&ルイスがプロデュースしたジャネット・ジャクソンの89年作『Rhythm Nation 1814』収録曲“Rhythm Nation”
 

――ここ数年はそうですよね、機械のグルーヴを自分たちで演奏するのが一番新しい。

沼澤「ミネアポリス・ファンクから今日のヒップホップに至るまで、ジャズやファンクのルーツが途絶えたことは一度もないんですよ。ルーツ・ファンクの要素は絶対になくならないけど、消化の仕方はその時代ごとのトレンドで変わっている。だから、ミネアポリス・ファンクは80年代における象徴の一つでしょうね」