
その声はいよいよ躍動し、その身体はますます雄弁に物語る。20年以上の時を経て、一つの節目に『BEST』を贈る三浦大知。我々はその栄光を見届けることができる!
「自分がやっていることは変わってなくて、チームとして〈何かカッコイイの作りたいよね〉っていうところから、〈こんなことやってみたらおもしろくない?〉とか〈これをライヴでやったらみんな絶対楽しい〉っていうことに向き合ってきていて、それが自分たちの一番の武器だと思ってます。それをずっと続けていたら、このタイミングで改めてフォーカスを当てていただいて、自分たちが積み重ねてきたものをおもしろがってもらえてる、っていう感じだから、それは良かったって凄く思ってますね。昨日今日始めたことではないので(笑)」。
自身を巡る好況や周辺の熱狂に対しても、三浦大知は極めて冷静だ。実際、初めてオリコン・チャートを制した“EXCITE”のヒットや「紅白歌合戦」初出場といった昨年の象徴的な出来事もあって音楽番組からヴァラエティーまでお茶の間への露出は急増し、評論筋からの音楽的な賞賛も“Cry & Fight”(2016年)あたりから俄に高まってきた観はある。ただ、そうした状況の好転が世間的な目を引き寄せる以前から、彼は日本武道館や横浜アリーナでの公演も成功させてきたわけだし、そうでなくても継続的な作品リリースとライヴによって、最上級のエンターテイナーとして着実に歩を進めてきたのは言うまでもない。そんな自負は「昨日今日始めたことではない」という言葉の通り、20年を超えるキャリアの上に積み重ねられてきたものなのだ。そんな三浦大知にとって初のベスト・アルバム『BEST』がここにきて登場したことは、結果的に最高のタイミングと言えるだろう。Folderの一員としてデビューしたのが97年、活動休止を挿んでソロ・アーティストとして再デビューしたのが2005年。一口で語るには長いキャリアだが、いまからその歩みを振り返るのに遅すぎるということは当然ない。

これは俺がやるんだ
87年生まれ、沖縄出身の三浦大知。幼い頃からダンススクールに通い、そこで選抜された男女混合7人組グループのFolderに参加したのは9歳の頃だ。97年8月にそのデビュー・シングル“パラシューター”がリリースされるや、注目を集めたのはこの時点でDaichiと名乗っていた大知の愛くるしい存在感、そして類稀な歌唱力だった。グループのコンセプト自体が往年のジャクソン5や同じ沖縄出身のフィンガー5などを連想させるものだったが、大知のパワフルに突き抜ける歌声はまさに少年時代のマイケル・ジャクソンを彷彿とさせるもの。よりジャクソン5的な名バラード“NOW AND FOREVER”(先日の日本武道館公演で元同僚の満島ひかりとデュエットを披露したばかりだ)など、主に小森田実(コモリタミノル)が手掛けた楽曲の出来の良さもあり、グループは子ども向け番組「ポンキッキーズ」へのレギュラー出演など活動の幅を広げていった。
ただ、時を経て小学6年生になった大知のヴォーカルは、変声期に差し掛かって徐々に変化していく。99年12月に登場した7枚目のシングル“Everlasting Love”は〈Folder featuring Daichi〉名義の実質的なソロ・ナンバーとなったが、そこでの歌声は蒼さを残しながらもキッズのそれではなくなっていた。そして、2000年3月のセカンド・アルバム『7 SOUL』は結果的にFolderの最後の作品となる。
「『7 SOUL』は……ひとりの男の子の、変声期になっていく一瞬の声がパッケージされてるのって、あんなの他にないですよね? だから、凄い瞬間にアルバムを作らせてもらえてたんだなって思います。物凄い貴重なものを残してもらったんだなって。感謝してます」。
同作を作り終えた後の大知は、「これからも歌っていくために」変声期が終わるまで喉を酷使しないよう芸能活動を休止。ちょうど進学のタイミングも重なって学業に専念することになり、Folder5の活動に移行した女子メンバーとは別の道を進むこととなった。
「休ませていただいて、その瞬間から女の子たちはFolder5の活動を始めて、ひとつの完成されたグループとして活躍してたから……何て言うんですかね、そこに自分の戻る場所はないんだなって思ったし、〈自分がやるとしたらソロになるだろうな〉って感じてはいました」。
そうした漠然とした思いが明確なヴィジョンに変わったのは、休業中に知ったアッシャーの影響が大きいという。
「その、Folderの時からお世話になってたお兄ちゃんみたいな人がいて、休業中もライヴに誘ってくれたり、パソコン買う時についてきてもらったり(笑)、そういう人なんですけど、その人から〈大知はこれ聴かなきゃダメだから〉みたいな感じでアッシャーの『8701』を聴かせてもらったら、それがまあカッコ良くて。で、その後に『ポップジャム』にアッシャーが出てるのをTVで観たんですよ。そしたら、ダンサーも付けずに一人で歌って踊ってるのがめちゃくちゃカッコ良くて。で、〈でも、こんなにカッコ良いのに、日本にはこういう感じの人が何でいないんだ?〉と思った時に、〈あ、これは俺がやるんだ、俺がやりたい〉って(笑)。それからはもう、そこに向かっていく感じがありましたね」。
そうした決意を固める機会もありつつ、休業中は部活も含めて至って普通の学生生活を送ってきたという大知。ダンス・レッスンに励む一方、復帰を決めてからは喉を改めて鍛え直しながら、結果的に表舞台への再登場までは数年を要することとなる。
「小学校の高学年とかはもう普通には学校に通えてなかったので、〈学校生活をしたい〉っていう理由もあったんですけど、やっぱ成長期に3年間、歌うことに喉を使わない生活を送ったので、使ってない筋肉がどんどん衰えたんだと思います。だから、久しぶりに歌ってみたら全然声が出なくて、当時は〈あれ、これはマズイぞ〉っていう感じでしたね。そこから〈もうボイトレしてもいいですか?〉って解禁してもらって、声を戻していかなきゃっていう感じでした」。
名義を本名の三浦大知に戻してのカムバックは2005年3月。ソロ・デビュー・シングル“Keep It Goin' On”はゴスペラーズの黒沢薫が作曲し、MVには伝説的なダンサーのクレイジー・レッグス(ロック・ステディ・クルー)も登場、R&Bを基盤にしたサウンドで歌って踊るという現在のアーティスト像はすでに示されていた。続くセカンド・シングル“Free Style”は、当時アッシャーらに楽曲提供していたパトリック“J・キュー”スミス(後にクラッチを結成。近年はビヨンセやアリアナ・グランデらの曲を書いている)のペンによるものだが、彼に貰った愛称がこの後のファースト・アルバム『D-ROCK with U』(2006年)の表題に繋がっていく。
「J・キューはゴスペラーズさんの“永遠に”とかを手掛けてたブライアン・マイケル・コックスの一番弟子みたいな人なんですけど。ある時、ちょっとした愛称みたいな感じで〈D-ROCK〉って何かに書いてくれて。〈ロックする〉って〈カッコイイ〉とか〈クール〉みたいな意味もあるし、いいなと思って。で、最初のアルバムを作ることになった時、やっぱりマイケル・ジャクソンからの影響も受けてるし、これからも三浦大知がリスナーのみんなと共にあるみたいな意味も掛けて、マイケルの“Rock With You”と合わせるのはいいんじゃない?って。ファースト・アルバムの時は、チームのスタッフさんを主体に、〈大知、こんな曲はどうかな?〉とか〈これに歌詞書いてみない?〉とか、いろいろ教えてもらいながら、一緒に曲を選ばせてもらったりしながら進めていきましたね、うん。だから、直接的に歌詞を思いっきり書いたとかメロディーを作ったとか、そういうのはないんですけど、与えられるがままにやってたってことでもなくて、皆さんが一緒に作ってくれてた感じはありました」。

よりクリエイティヴに
アルバム・リリース後、2007年の作品はajapai制作のシングル“Flag”のみに止まるが、その後に制作体制などを仕切り直して登場したのが、本人も大きなターニング・ポイントと認める2008年7月のシングル“Inside Your Head”だ。初顔合わせのNao'ymtによるキャッチーなダンス・トラックは、大知がみずから振付けも担うきっかけの一曲となった。
「一回仕切り直してから、いままで組んだことのないトラックメイカーの方とも一緒にやってみようって話になって、そこでNaoさんとの出会いもあったんです。この“Inside Your Head”がなければ自分が振付師として〈ダンスを一曲丸々つけたい〉みたいな気持ちになるのも、もっと後だったかもしれないです。それまでは振付師の方がいたんですけど、この曲はもう聴いた時に〈絶対に自分でやりたい〉と思って作って、〈使わなくてもいいから見てほしい〉って見てもらって。そしたら何か〈いいね〉みたいな話になって、そこから自分で作るようになったんです。定点のダンス映像もこの時から撮りはじめたし、いまの三浦大知の一歩目という感じはありますね」。
なお、同シングルのカップリングに収録された“Magic”では、UTAとの共作で大知が初の作曲を担当。『D-ROCK with U』収録の“17 Ways”や先述の“Flag”で作詞を経験していた大知だが、ここでのUTAとの手合わせは彼が具体的な制作面にも深く関わっていくきっかけとなった。そうした成果を踏まえてのセカンド・アルバム『Who's The Man』は、改めて〈この男は誰だ?〉と問う表題からもわかるように、改めて自身の持ち味を世に紹介する気概に溢れた名作となった。
「チームとしてNaoさんとの出会いが凄く衝撃的だったので、やっぱその衝撃をパッケージしたい気持ちが強かったですね。もちろん他にもU-Key zoneさんだったり、いろんな出会いがあって、このあたりから自分も制作の部分により入らせていただいたり。以前が別に関わってなかったわけじゃないですけど、拙いながら歌詞を書いてみるとか、〈こういう楽曲をやってみたい〉っていう段階から話をさせてもらえはじめていたので、よりクリエイティヴな部分を一緒にやらせてもらえたアルバムだった気はしてます」。
数字だけで見れば商業的に大成功とは言い難い『Who's The Man』ではあったものの、そこが現在にまで至るスタンスのポジティヴな起点になったことは、初のTOP10入りを記録する次作『D.M.』(2011年)以降のアルバムが確信的に地続きとなっていることからも明白だ。また、この時期の大知からはシングル・ヒットを期待される立場でありつつ、よりアルバム・アーティストとしての頼もしさを強めてきたという印象も受ける。
「そうですね。ツアーでも以前より会場を多めに回らせていただくとか、三浦大知はこうやってライヴ中心にやっていく、みたいになっていった時に、ひとつの塊で観せる/聴かせるっていうのはライヴもアルバムも通じるところが凄くあって。アルバム一枚の流れみたいなものも、セットリストじゃないですけど、そういう視点で選ぶようになってきた部分はあるかもしれないですね」。

2012年5月には初めて日本武道館で公演を行い、翌年9月には初の横浜アリーナ、2017年1月には初の国立代々木競技場第一体育館……とライヴの動員数もツアーの規模もグングン拡大。それと並行して『The Entertainer』(2013年)、『FEVER』(2015年)、『HIT』(2017年)と力の入ったアルバムもコンスタントに生まれてきた。折々の作品に臨む本人の意識はアルバムごとにbounceで行ってきたインタヴューをアーカイヴなどでご覧いただくとして、その流れで見えてくるのはUTAと大知のコンビが制作ユニットの重要な一角として徐々に存在感を大きくしてきたことだろう。
「自分で何かやってみたい気持ちは常にあったんですけど、それを形にする術がなくて、自分でトラックを作ってみても、やっぱり頭の中で鳴ってるものにはならないし。そんな時にUTAさんと〈こういうスネアが良くて、これぐらいのBPMのこんな感じがいいと思ってるんですけど〉って話してたら、パッとドラムを組んでくれて、そしたら自分の頭の中で鳴ってるやつの最高峰みたいなのがその場で組み上がるわけですよ。〈ああ、それです!〉みたいな。そうやって頭の中にある音を形にしてくれて、それをより上回るものを一緒に作ってくれるUTAさんがいるから、そこに甘えさせてもらいながら自分もそういう部分に参加できるようになった感じはあります。もちろん他の作家さんにもたくさんお世話になってるんですけど、NaoさんとUTAさんっていうのは曲数も含めて三浦大知の中では大きい存在なんです。Naoさんは、どっちかって言うとホントに仕立て屋さん、テイラー屋さんだと思うんですよ。もう独自の世界観があって、その人専用のスーツを一着ビシッと作ってくださるっていう。一方のUTAさんはもうビックリするくらいデカいクローゼットがあって、バサッて開けたら、いろんな洋服が選び放題で、そこからどんな服を組み合わせても、ちゃんとそのオリジナルになるみたいな。だから2人とも能力が違うんだけど、唯一無二な部分を凄く感じていますね」。
積み重ねていくこと

そんなわけで、今回の『BEST』では、これまでのシングル22枚の24曲を2CDに網羅。“Flag”のオリジナル・ヴァージョンや最新シングル“U”(2017年)はアルバム初収録となるが、話題なのはDREAMS COME TRUEに書き贈られた先行配信曲“普通の今夜のことを -let tonight be forever remembered-”のCD化だろう。ドリカムらしいソウルフルで華やかな意匠が大知の歌唱にフィットする。
「凄くソウルだし、ファンクだし、いままた凄くトレンド的ですけど、ドリカムさんってずっとその感じをやられているじゃないですか? ドリカムさんのやってきたことが時代にめちゃくちゃリンクしているこの時期に、三浦大知のことを思って曲を書いてみようって思っていただけたのはホントに嬉しいですし、単純にやっぱカッコイイなっていうのを凄く感じました。ドリカムさんはもともとうちの親が大好きで、母親が初めてカラオケで歌ってくれたのが“未来予想図II”だったりして、それでトリビュートのお話があった際に“未来予想図II”を歌わせていただいたんです。その後にUTAさんのアレンジで“決戦は金曜日”を歌ったら、〈あのアレンジ、すっごい良かった!〉って凄くおもしろがっていただけて。そこからここまで繋がったんですけど、まさかドリカムさんが自分のことを思って曲を書くなんて、そんな贅沢がありえるとは思ってなかったので(笑)、ちゃんと三浦大知として表現しなきゃっていうのを思いながら歌いましたね」。
それに加えて、『BEST』用の完全な新曲として用意されたのが、UTAと多保孝一が共作者に名を連ねた“DIVE!”。
「自分的には次の方向性を見せるみたいな新曲より、ここでしかできない新曲っていう立ち位置でおもしろいものが作れたらいいなと思ってたんですよ。きっとベスト盤の後に〈次の一手〉があるから、ここでしかできないスペシャルな一曲をやっておいたほうが、きっと〈この次は何するんだろう?〉って楽しくなってもらえるんじゃないかと思って。じゃあ、どんな曲をやろうかって時に、〈やっぱり三浦大知は歌って踊る人だから、歌って踊れるアップがいいんじゃないですか?〉〈ファンキーなのがいいよね〉っていう話になって。でもトレンド的なのをそのままやってもおもしろくないから、そのちょっと先を行ってるのか、ちょっと横にズレてるのかわかんないですけど、そこを模索できたらおもしろいな、ってところで、このBPMにこだわってUTAさんと作りました」。
そうやって生まれた“DIVE!”はストレートなディスコ・ブギーのようでいて、マイケル感とプリンス感が絶妙に絡み合った遊び心溢れるファンキーな逸曲に仕上がっている。
「そうですね、出来た時は〈何じゃこれ?〉って感じでした(笑)。もちろん聴いたことある感じなんだけど、組み合わせがけっこう謎で新しいっていう、何かここにしかない感じになってて、〈これはおもしろいぞ!〉って現場で凄い盛り上がって。このアレンジが出来てから多保さんにメロディーをお願いして、一緒に仕上げていった感じですね」。
なお、その“DIVE!”のMVは、大知自身の過去のMVへのセルフ・オマージュを「ホントに細かくてわからないものから、〈わかるよね?〉ってものまで引っ括めて、全曲入れました」というもの。さらに自身の憧れの原点となるマイケル・ジャクソン“Black Or White”へのオマージュも微笑ましい。
「三浦大知チームから生まれた楽曲たちが、また聴かれて輝くといいなっていうのは凄く思っているので、そういう意味でこの『BEST』はいいなっていうところもありますよね。“Cry & Fight”以降に知ってくれた人が、〈あ、こんなのもあったんだ〉っていう。いまの時代に、いまの世代の子たちが例えば“Inside Your Head”を聴いたらどんなふうに思うんだろう?とか凄い興味ありますよ。あの時の衝撃を感じるのかな?とか。ブルーノ・マーズもきっとそうじゃないですか。あの感じを体験してない世代がセンセーショナルなものとして受け入れてるっていうことだと思うので、そういうのはおもしろいですよね」。

いずれにせよ、2018年以降の三浦大知についてもこれまでの積み重ねの延長線上にあるのは間違いないだろう。
「これからも変わらず、〈こんなのが新しいんじゃないか?〉〈こういうのは楽しそう〉っていうことをチームで一歩一歩やっていくのが、きっと三浦大知らしいと思うし、それをしっかり積み重ねていけるのがこのクルーの誇るべき部分だと思っています。あとは昔から応援してくださってる方なら、僕の天邪鬼な性格をたぶん理解してると思うので、『BEST』っていうある種のベタなものが出た後は、きっと何か変なことしたいんだろうなっていうのはバレてるような気がしてますし(笑)、そこも楽しみにしてもらえたら嬉しいですね。今後も何かやっては、それと真反対のことをやったり、それをずっと繰り返して続けていく気がしてるので、いつ訪れても何か新しいアトラクションができてる遊び場みたいになったらいいですね」。
三浦大知のBDを一部紹介。
三浦大知が2017年に参加した企画盤。
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