日本における電子音響~エレクトロニカを支えてきた〈PROGRESSIVE FOrM〉からリリースされた前作『SONASILE』(2016年)で、網守将平という音楽家をそれらの系譜に位置づけられるべき作家だと思ったリスナーも多いだろう。

しかし彼は、新作『パタミュージック』でそのイメージを軽やかに裏切る。網守将平は同アルバムをリリースするレーベルとしてSerphやworld's end girlfriend、tenniscoatsなどのカタログで知られる〈noble〉を選択した。その内容は『SONASILE』で聴けた電子音響~エレクトロニカにとどまらず、ポップスをベースにしながら、網守将平の音楽的ヴォキャブラリーをヴァラエティー豊かに、マッシヴに詰め込んだものになっている。そこには網守自身がヴォーカルを担当するバンド・サウンドがあり、電子音響~エレクトロニカがオーケストラとコラボレーションしたようなサウンドがあり、無限音階や位相変換を用いた実験音楽などもある。ポップスとしての強度も実験性も前作よりもはるかに振り切れており、良い意味でイビツなものになった怪作といえるだろう。

この度掲載されることになった網守将平とぼく(八木皓平)との往復書簡は、『パタミュージック』についての話を出発点に、音楽を巡るコミュニケーションの問題や、音楽教育、ミュージシャンに客演を依頼する意味、網守将平という音楽家の活動の根幹にある思想について断片的に、そして普遍性をもって語られ、凝縮したものになっている。これを読んだ後、あなたはきっと『パタミュージック』を聴きたくなると同時に、あらためて〈音楽〉について考えたくなるに違いない。

網守将平 パタミュージック noble(2018)

〈じゃあどれが本当のオンガクなんだ?〉という疑問

八木皓平「前回、ぼくが網守さんに行ったインタヴューでは、網守さんは前作『SONASILE』について、〈電子音響のヴォキャブラリーを用いて音楽を作り、力ずくでもポップスにする。そうすることで、電子音の存在感を逆説的に際立たせ、電子音響を、もう一度かつてのようなわけのわからない力を持った音楽にしたかった〉という旨のことをおっしゃっていました。

新作『パタミュージック』は、さまざまなレヴェルで前作よりも音楽性が拡張された作品になっていますが、以前のコンセプトからどのような変遷を経て作られたのかを教えてください」

網守将平「前作のような音楽の内容自体に備わったコンセプト(前作では確かに〈電子音響〉をコンセプチュアルに扱っていました)っていうものが、今作はまったくないんです。アルバム全体を作るうえでのコンセプトは設定しているのですが、リズムだとかコードだとかグルーヴだとか、音楽イディオムに関係しているものではありませんでした。なぜ音楽の内容にコンセプトがないかというと、自分の潜在的な興味と現代社会で扱われている音楽の在り方を照らし合わせて考えたとき、内容にコンセプトがあることを、いまの自分がやっても意味がないと思ったからです。

ここ2年くらいでいろんな音楽の現場を体験したんですが、音楽は確かにそこで鳴っているけど、その音楽っていうのは〈音楽を作るプロセスや、それに伴う他者とのコミュニケーションそのものが音楽である〉というテーゼで成り立っていると感じました。抽象的な言い方ですけど、音楽は社会のインターフェースであり、そういう時代なのだなと。それは音楽の多様性と、その共有っていう意味ではとてもポジティヴに思えるテーゼなんですけど、仮にそうだとしたら〈じゃあどれが本当のオンガクなんだ?〉という疑問が湧いてしまったんです。

というのもあって、今作の制作では〈どのようにしてどんな新しい音楽を作るか〉という考え方をやめて、〈どのようにして音楽が聴かれる状況自体に揺さぶりをかけるか〉という考え方に変わりました。アルバムというフレームを〈記録物〉としてではなく〈場〉として扱った。作品自体が〈表現〉ではなく〈実践〉になっているつもりです。なので、いわゆる電子音響とか今回ほぼ関係ないし、考えてないです(笑)」

八木「コミュニケーションと文化的行為が密接に結びつくというのは音楽にかかわらず、インターネットが一般的なツールになって以降、盛んに言及されることですが、網守さんが音楽の場においてそれを実感したのは例えばどういうときでしょうか? また、コミュニケーションと音楽との結びつきは、コミュニケーションと他のカルチャーとの結びつきと比べ、なんらかの特異性はあると思いますか?」

網守「そういうものを特に実感したのは、オーケストラという大多数の集団に楽曲を〈演奏してもらう〉という場と、バンドのような集団アンサンブルで自分の音楽を〈一緒に演奏する〉という場の、二種類の現場です。

前者は、自分と演奏者の間に指揮者、インスペクター、コンマスなどの役割を持った人々が仲介としている状態で、そういう歴史上で作り上げられてきた制度に則ってコミュニケーションしなくてはならない。上下関係もめちゃくちゃある。作曲者が存命かどうかも密かに影響してくるくらいです。後者は制度的なしがらみはないけど、そのぶん脆いし、〈ヴァイブス〉なるめっちゃ抽象的な要素が必要で、即人間性を問われるという(笑)。

どちらにせよ人が増えれば増えるほど、偶然性など孕みつつ音をみんなで共有し作っていく楽しさがある一方で、音楽そのものが人間のコミュニケーションにまるごと取って代わられてしまうことでもあると思いました。人が増えるほど音楽の創作にとっては有限的だなと。昨今のアートコレクティヴの隆盛を見てきたから、この考えにいま至ったという可能性もありますが。ただ歴史的には、コミュニケーション自体が作品になりえるようなことが音楽の姿とも言えるのかもしれないし、ここが他のカルチャーと違う部分だと思います。

これを普遍的なものとしてスルーできず、問題化してしまうのは、僕が長年ある種の〈一人で作る音楽〉を無自覚に続けていたからかもしれません。自分のなかでも答えは出てないですが、考えていこうと思っています。コミュニケーションが嫌いとかでは全然ないんですけどね(笑)」

2018年3月、三鷹SCOOLにて開催された〈日本美術サウンドアーカイヴ〉の主催イヴェントでパフォーマンスする網守。作家・渡辺哲也のオープンリールを使った作品『CLIMAX No.1』(73年)を再演している
提供:日本美術サウンドアーカイヴ© 渡辺哲也
撮影:藤島亮

 

メロディーは抽象的な要素にもかかわらず、普遍的な要素として音楽に求められる

八木「収録曲の“デカダン・ユートピア”をはじめ、電子音楽をオーケストラ的な構造や音響と近似させることで、楽曲にポップな印象をもたせるという部分が本作にはあると思うんですけど、そのあたりについてはいかがでしょうか? 前作で築き上げた電子音楽に、網守さんがアカデミズムの場で学んだオーケストレーションを呼び込もうとしているようにも聴こえました」

網守「むしろ逆ですね。今作は電子音響にコンセプトを置いていないどころか内容にコンセプトがない。問題としたのは、各曲がそれぞれ一つの音楽でありながらアルバムという同じフレームに収められていることをどう活用するかだった。つまり曲の内容はなんでもよくて、〈こういうの一度やってみたかったんだよね〉的なノリで作った曲を並べていっただけなんです。すべての曲がそうではないんですけど。

“デカダン・ユートピア”は現代美術展のタイアップ(『不純物と免疫』)というちょっと不思議な類のクライアント・ワークで作った曲で、最初はキュレーターからラップを入れてほしいというリクエストがあった。ラッパーじゃない僕にラップが求められたそのこと自体が、この曲の内容を決定付けている部分はあるかと思います。僕がラップしている部分やトラックは全然ラップのセオリーじゃなかったり、明るいオーケストレーションがハーシュノイズで台無しになっていたりしますからね(笑)。それが結果的にポップになるというのは一つの発見でした」

八木「『パタミュージック』の収録曲“ajabollamente”は、オーケストレーションを形作るうえで、器楽と電子音楽をパラレルに扱うというアプローチをとられていますが、どこかゲーム・ミュージック的に響いているのが興味深かったです。後半はピッチが歪んできて、バグっているような箇所もあります。実際、ゲーム・ミュージック的なものとのリンクを想起する瞬間はありましたか?」

網守「この曲は完全にメロディーとその強度を前に出すことだけ考えた、メロディー全振りの曲です。15歳のときに発表したピアノ連弾曲をリアレンジした、個人的に最も思い入れのある曲でもあります。メロディーのことしか考えてないうえでアレンジしているので、その点は良くも悪くも頭使ってないですね。その結果として出来たのがゲームや映画を思わせるものだというのは興味深いというか、〈やはり〉というか。

身体化された西洋音楽の技術をメロディー重視で使うと、そういう結果になるんですよね。それ自体は日本の音楽教育の問題にも繋がってくるんだと思います。学生時代、ゲーム音楽の作曲家をめざしている友人が周りに多かったし。僕はゲーム音楽の影響はほぼ受けていなくて、電子音やアカデミックな技術がゲーム音楽の世界に活かされる、それ以前の時代の音楽から影響を受けています。なのでゲームっぽいと言われるとちょっと複雑な気持ちになりますね(笑)」

八木「本作では網守さんがヴォーカルを担当している要素が大きいですよね。前作はそうではなかったので、前作から本作に至るまでの過程でなんらかの決断があったようにも思えたんですけど、実際のところはどうなのでしょうか?」

網守「本作で、音楽の内容自体に重きを置いている部分が唯一あるとすればメロディーです。メロディーはコードやリズムと違って、理論化されきっていない抽象的な要素だと思っているんですが、にもかかわらず音楽に普遍的な要素として求められているし、かつ音楽の普遍性を決定づける要素でもありますよね。だからそれこそ自分としても普遍的に興味があります。

ヴォーカルの質自体に今回こだわりはないんですが、本来シンガーでもなく、しかも歌が下手な人が歌っているっていう状態がすごく好きです。そこに自分は完全に当てはまるので(笑)、徹底して自分で歌い、それによって諧謔的にメロディーを強調してはいますね。前作よりもそのスタンスを徹底したという感じでしょうか」

 

〈ポップネス〉と〈実験性〉の共犯関係

八木「本作は前作よりもさらに音楽的なヴァラエティーに富んでいます。“いまといつまでも”なんてニューウェイヴ的な要素があったり、ガッツリとギターソロが入っていてどこかニューミュージック的な響きもある。本作の多様性を象徴するような楽曲です。この曲を作る際に、どういうイメージを持って臨みましたか?」

網守「この楽曲にも特にコンセプトはなく、たまたまこういう曲が作りたかっただけなんですよね。だからギターソロも〈やってみたかった〉だけ(笑)。でも、コンセプトがゼロだと出自が露わにはなるもんだなと思います。作り始めたときはジス・ヒートみたいになるのかと思ったら最終工程でフレンチ・ポップみたいになりそうだと気づき、それに納得がいかずギターソロを入れる決断をしました(笑)」

八木「コンセプトがないことで出自が露わになるというのは良いフレーズですね(笑)。本作ではたしかにそういった要素がそこかしこに感じられます。〈作り始めと終盤でサウンドが違い、しかもそこに納得がいかなくてギターソロを入れた〉というエピソードを聞いて思い出したのですが、ぼくは本作のとりわけポップなナンバー“いまといつまでも”“偶然の惑星”“蝙蝠フェンス”あたりを聴いて、〈ポップに突き抜けた部分は大きいけど、同時にちぐはぐな感じもしており、しかもそれが良い方向に機能していておもしろいな〉という感想を抱いたんです。だから、そのエピソードを聴いて納得させられた部分があるんですよ。

コラージュ的なデザインやアレンジが複雑という意味とは違った、ちぐはぐ感。この感想を聞いてどう思いますか? コンセプトがゼロという点と関係しているような感じもあるんですけど」

網守「八木さんの仰るとおり〈ちぐはぐ〉だと思うし、すべての曲で出自があからさまに出てると思いますよ。マジでやりたいことしかやってないので(笑)。今作はポップ・ミュージックにおける〈ポップネス〉と実験音楽における〈実験性〉でコンセプト上の共犯関係を結ばせているので、良いか悪いかはともかく過剰に相対化はされているとは思います。でも、それにもかかわらず今回は作りたい曲しか作ってない。だからこそ複雑さというよりも、ちぐはぐ感を感じてもらえているんだと思いますし、それが僕はとても嬉しいですね。関係ないかもですけど、いくつかのエクスペリメンタルな楽曲は心の底から実践したかったことです。今回打ち立てたコンセプトをふまえると、ここでやるしかないと思ったので、実践できて本当によかったです」

 

個性を把握しつつも、その個性とは逆のことを演奏者に求める

八木「網守さんは前作『SONASILE』と今作『パタミュージック』でさまざまなジャンルのミュージシャンを招いて音楽を作られましたね。そういう意味で、網守さんの音楽はご自身のなかで完結するようなものではなく、常に外部から何かを呼び込むことで創り上げられていくようなものにも思えます。そう考えると気になるのは、彼らにどういうディレクションをしているのかということです。本作の収録曲を例にして、そのあたりについて教えてください」

網守「いや、音楽的には僕個人で完結していますね。外部のミュージシャンに手伝ってもらっているといっても、彼らの個性は結果的に活かされるときもあれば活かされないときもありますし。また、僕には個性は把握しつつも個性と逆のことを求める傾向があります。“いまといつまでも”の岡田(拓郎)くんのギターはその方向性でうまくいった部分ですね。彼が普段やりそうにもない、いかにもなギターソロをリクエストしました。それもこなしちゃうのが彼のすごいところなんですけど。いかにもさ加減がおもしろくて、レコーディングの最中は僕が一人でゲラゲラ笑ってました。めっちゃ嫌なヤツ(笑)」

八木「今作は客演ミュージシャンもジャンルを越えた幅広い人選になっていて、前作にもまして個人で完結しているという印象は受けなかったので、その返答は意外でした。じゃあ、ほぼ完全に楽曲の骨組みやイメージを作り上げたうえで、この部分にこういう音が欲しいと投げているんですか?

また、“蝙蝠フェンス”の客演は、岡田さんのほかに、池田若菜さん(フルート)、大石俊太郎さん (クラリネット/サクソフォン)、黒田鈴尊さん(尺八)というユニークな並びで、本作の多様性の核ともいえる楽曲かなと思いますが、こういう人選はどういう基準で行われるんでしょうか? 〈個性は把握しつつも個性と逆のことを求める傾向がある〉と仰っていましたが、個々の作曲家の個性は、人選の際にどう考えるのでしょう?」

網守「ミュージシャンたちには、作り込まれたアレンジが先にある状態で譜面を書いて渡しています。セオリー的には西洋音楽の現場みたいに作品を〈演奏してもらう〉ことをやってるときと一緒だから、音楽そのものは僕個人で完結してるってだけです。欲しい音も先に頭の中で鳴っちゃっているので、頭の中で鳴っているものをいかに鮮度が良い状態で他者に伝達して、演奏してもらうかっていう。一般的な職業音楽家がやられているようなやり方ですね。人選はなるべくそのやり方に対応できる人で、かつ僕自身が興味ある人を選んでいる感じですね。でもそれだけだとおもしろくないから、岡田くんみたいな人にちょっと変なことやらせてみたりって感じかな。

僕みたいな人間はむしろ、ヘッドアレンジみたいな、ポピュラー音楽を作る際のセオリーで作っていくものは想像するのが難しいです。最近はバンドのプリプロやヘッドアレンジにサポートで参加する機会もあるんですが、〈演奏してもらう〉ってレイヤーに慣れている立場からするとまったく異なる空間で必ず戸惑います。でも最終的には〈演奏してもらう〉ことより100倍くらい楽しい経験になります」

※譜面に記されず、演奏の現場で編曲が行われること

八木「“偶然の惑星”は、ある意味ではバンドでポップスをやっているような響きもあって、興味深かったです。網守さんはライヴをするにあたって、バクテリアコレクティヴというバンドを率いて演奏されていますが、その活動が本作にもたらした影響はありますか?」

網守「“偶然の惑星”は、若干複雑な部分はあるものの、根幹は普通の8ビートのポップスですね。今作の楽曲は、ほぼ生ドラムでビートを組んでいます。それは、ビートの音色の抽象度が落ちるとたちまちポップスとして機能するのがおもしろいいと思ったからなのと、〈エレクトロニカ〉みたいな分脈からより離れるためでもありました。

バクテリアは急遽立ち上げた集団で、あれをやるまでバンド経験というのがなかったので、バンドというスタイルで使われる共有言語がまったくわからず苦労しました。幼少期からずっと鍵盤を弾き続けているのにもかかわらず、それだけでは歯が立たない。ずっと学んできた技術が役に立たないのはなかなかのアイデンティティー・クライシスでした(笑)。バクテリアが今作に音楽的に影響しているということはないんですが、他者とのコミュニケーションから切り離せない音楽体験という側面からは、アルバム全体のコンセプトには少なからず影響していますね。今後は〈バンド〉ではなく、何らかの別の形で〈アンサンブル〉としての成立をめざしたいと思ってまいす」

 

〈快楽〉よりも〈不気味さ〉が必要

八木「網守さんは東京芸大を卒業して、アカデミックな素養もあり、そういった要素が仕事に結び付いている部分もあると思います。そういったアカデミズムで体得した知恵はご自身の活動にとってどういった形で貢献しているのかを、『パタミュージック』を作り上げたいま、あらためて教えてください」

網守「アカデミックなバックグラウンドに関しては、周りから見たら目立つのかもしれないけど、自分自身は特に眼中にありません。音楽的に活かされている部分はもちろんありますが、その活かされ方自体はいつも同じようなものです。それが普遍的に身に付いていることは便利だけど不便なときもたくさんあります。アカデミズムのなかで体得したものは基本的には音楽を作ったり分析したりする技術でしかないので、それ以外のことはすべて自分の耳と目で学んでいくしかないですから。

最近はアカデミックな西洋音楽の技術を取り入れて発展しているポップ・ミュージックがすごく多い気がするし、状況としておもしろいなと思うんですけど、自分とはあまり関係ないかなと思っています。僕の場合そういうものとは逆方向の音楽で感動する傾向がありますね」

八木「網守さんは昨年12月に東京芸術大学陳列館での展覧会〈N/O/W/H/E/R/E - ニューメディアの場所(ユートピア)をめぐって〉で発表したインスタレーション『GAP OVER』のキャプションで、補足として以下のように書かれていました。

〈人間に耳という奇妙な器官が備わっていることそれ自体のヤバさ/不気味さを音を通して問題提起できるかどうかが僕の中の音/音楽に対する主たる興味の一つ  〉

この言葉は、網守さんの活動の根幹となるような部分だと思うので、ジョン・ケージとの関係性を絡め、詳しく説明していただけますか?」

網守「例えばデュシャンはレディメイドという概念によって、社会や歴史によって規定されてしまった視覚と対象の関係性そのものを破壊して、網膜という主体が対象を純粋に知覚することを試みたという説があります。ここでいう〈視覚〉〈網膜〉を〈聴覚〉〈鼓膜〉に替えれば、ケージがめざしたことも説明できると思います。音の純粋知覚を指向したわけですよね。

それに対して、デイヴィッド・ダンなどのアーティストたちが考えているように、音が存在すれば文化や社会が存在しているし、どちらも確実に関係している、といったケージのめざした純粋性を批判するような傾向も生まれました。僕が考えているのは、後者の立場の考えを拡張することで、反動的に純粋性(ケージとはまた違った意味での)の指向に向かえないだろうかということです。

「GAP OVER」の記録動画
 

そのためには快楽よりも不気味さが必要だと思うんです。昨年制作したインスタレーションでは、視覚の反動としての聴覚が不気味に作用するような作品をめざしたのですが、『パタミュージック』ではポップスが実験音楽に対して不気味に作用するような、多くの〈いわゆる〉を破壊する可能性を目指しています。その不気味さを経て、〈僕たちには耳がついてる〉ということにまで立ち返ることができると思います。だから僕がやっているのは結果を共有するのではなく、総じて問題提起なんですね」

八木「今後も持続するであろう、その問題提起について、インスタレーションのようなアートフォームと、音楽のアルバムを制作してリリースすることとでは、網守さんの中で表現するテーマや質に住み分けはありますか?」

網守「基本的にはまったく住み分けはなくて、どれも素朴に〈音楽をやってる〉としか思ってません。僕としては多様な活動をしたいというわけではなくて、単純に音楽を作るだけでは音楽のことが自分でよくわからなくなってしまっているから、アートの場でも音の作品を作っています。歴史上の先人たちを見ても、その方が自然な態度だなとも思います。

僕の作るものは音楽性やイメージが個々でわかりやすく一致しているわけじゃないから、すべての活動に連続性がないようにも思われるかもしれないけど、僕はそれこそが思考停止だと思っていて、そこから脱するための想像力や批評性の萌芽をめざしているから、僕自身は動き回っているわけで、姿勢は一貫しているんです。とはいえ〈業界〉的な住み分けはやっぱり存在してますよね。

音楽の世界の外では音楽の実績なんてまったく役に立たないし、アートの場での搬入や設営の技術を専門的に学んだわけではないからいつも苦労していて、そこはまだまだ経験が必要です。綺麗な養生方法とかケーブルの綺麗な這わせ方とかを学ぶだけでも、音楽に影響しますからね」