前衛から実験へ、そしてその先は?
20世紀は終わったけれど、それはあたかも自動延長されたかのように継続されたのだった。もちろん、あくまでも感覚的な話ではあるが。21世紀の到来は、遅れて来た世紀末がそのまま居座ってしまったかのような現実によって否応無く実感させられている。
新しい概念が古いものにとって代わられ、つねに現在はそうやって新しい概念によって刷新されることによって時間は進み、振り返られることはなく、取り残されたものは時代遅れと呼ばれる。しかし、20世紀の最末期になって、そんな状況が変わり始める。音楽に関する言説は、音楽そのものではなく、そのデータ形式や流通方式といったフォーマットと方法論の差異を語るものになった。そして、ネットワークには、さまざまな音楽が現在としてアーカイヴされている。それらは断片として、あるいは記憶として、現在の音楽に反響する。新しいものが、古いものとともにあらわれる。いつまでも参照され続け、繰り返される。そこで私たちは「もう前衛音楽を聴いてしまっている」のである。
本書は、そのような現在から、かつて未来を標榜し、その最前線に位置した先鋭的な表現、前衛音楽(アヴァンギャルド・ミュージック)とはなにかを、あらためて聴き直すものである。現在の耳から“前衛音楽”を捉えなおすことは、ある意味では転倒した考えかもしれない。本書は、“前衛音楽”の入門書、手引書のような体裁を持っているし、そのように読むことも可能だ。しかし、冒頭に記された本書の前提となる著者の意図したものは、それをいかに現在と切り結ぶことが可能か、ということだろう。
坂本龍一の 『BTTB』が原点回帰の作品であったように、そして、それが20年を経てふたたびリリースされるように、何度でも再帰するサティを論じる。それは現在を起点にして前衛のあり方の変遷をたどることでもある。『BTTB』が1998年と2018年では聴こえ方が変わるというように、といつだって現在の耳によって捉え返され、その意味や価値を変えていく。
松村は「前衛音楽には過去と未来が同時にのりいれている」という。19世紀末から20世紀へ、前衛から実験へ、ジャズから即興へ、ミニマリズムからアンビエントへ、譜面から録音、アーカイヴへ、芸術音楽からポップへ、20世紀におきたいくつものトランジションの中から聴こえてくる前衛。そして、20世紀から21世紀のトランジションに、前衛というアティテュードがどのように反響するのか/しているのかを問うている。