90年代とはこの国の音楽文化にとって特別な時代だった、というのは、幼い頃にあの時代を過ごし、当時作られた作品を後から聴いた89年=平成元年生まれの私にとっても、なんとなくわかることだ。いまだにはっきりとした像を結ばない2000年代に対して、90年代の特別感は確かなものとして感じられる。そういった個人的な感覚を抜きにしても、20年経って時代が一回りしたのか、90年代カルチャーの懐古/回顧とリバイバルは、最近のトレンドになっている。その様は、〈90年代とはなんだったのか?〉という問いかけに多くの人々が首をひねり、なんとか答えを導き出そうとしているかのようにも見える(たとえば、Netflixのオリジナル・シリーズ「呪怨:呪いの家」にもそういうところがあったように思う)。

昭和の終わり、そして平成の始まりとほぼ時を同じくして、90年代というディケイドは始まった。その後、新時代の幕開けはバブルの崩壊によって水を掛けられ、阪神淡路大震災という自然災害、地下鉄サリン事件や酒鬼薔薇聖斗事件に象徴される凶悪犯罪によって絶望のどん底に叩き落とされる。90年代とその文化には、ある種の〈暗さ〉があったように思う。

いっぽう音楽の世界はといえば、バブルに包まれたままで、どこか楽観的で躁的だったのではないだろうか。ミリオン・ヒットのシングルやアルバムが続出し、CDの売上は98年にピークに達した。音楽産業の規模は膨張し、最大化した。J-Popの輝かしき黄金時代。

表面的な数字の上での豊かさだけではなく、アンダーグラウンド/オルタナティヴ/インディペンデントな音楽は多様化、複雑化し、実り多き時代を迎えた。しかも、それらはどこかでポップ・シーンと交わっていた。それは、単純に経済的に豊かだったからなのだろうか? それとも、それだけではない何かがあの時代にあったからなのだろうか?

松村正人と野田努が監修したele-king booksの「90年代ディスクガイド――邦楽編」は、主にアンダーグラウンド/オルタナティヴ/インディペンデントな音楽の側から90年代の豊かさと特別性を考え、描き出した本だ。まずはDJ/クラブ・カルチャーに関連したアルバムやシングルやコンピレーションの紹介に始まり(1枚目はDJ Takemura & Kool Jazz Productions=竹村延和らの12インチ・シングルである)、アシッド・ジャズ/クラブ・ジャズ、瀧見憲司が主宰するCrue-L Recordsのカタログ、ヒップホップ、Ken Ishiiや電気グルーヴに象徴されるテクノ、(振り返られる機会の少ない)レゲエの作品などが、なんとディスクガイドの半分を占めている。次は、ボアダムスに始まるオルタナティヴ・ミュージック、フリッパーズ・ギターに端を発するギター・ポップと渋谷系、モンド・ミュージックなど。そして、最後にこじんまりとJ-Popの作品が紹介されている。フラットな響きを持った書名に騙されてはいけないのだが、90年代の日本の音楽を扱った〈普通〉のディスクガイドとは逆の比重と構成になっているのだ。

監修者の2人による巻頭言にも明らかなとおり、これは何よりもクラブやレコード屋といった場とDJたちのプレイが作り上げた文化、そして(プレイヤーというよりも)プロデューサーたちが生んだサウンドを振り返り、それらを位置づけなおし、90年代という特別な季節と2020年代の現在とのつながりを探ろうとする試みだと言える。

この本の視点を広げていくと、ここに載っていない盤にもまだ新たな発見がありそうだ、と思えてくる。良くも悪くもJ-Popの無節操なクラブ・ミックスが濫造された時代だし、レコード屋のエサ箱を漁っていて、いまだにこの時代の12インチ・シングルに出くわすことは多い。もしかしたら、そこに何かがあるのではないか(とはいえ、ああいう時代だったので、はずれに当たることのほうが多い可能性はある)。あるいは、大前至が選盤したヒップホップの項はアルバムが中心なので、シングルにおもしろいものがあるかもしれない。アンダーグラウンドのハードコアやパンクで紹介されているのはS.O.B.やZENI GEVA、Melt-Bananaのアルバムくらいだが、メタルを含めてきっと他にもいま聴くべき作品が無数にあるだろう。そんな、〈この先にまだ見ぬ90年代が広がっている〉という余白を感じる本なのだ(なので、さらなる続刊を期待したい)。

松村が本書の冒頭で描いた、レコード屋が乱立していた90年代の渋谷の風景を私は知らない。90年代のダンスフロアも、私は知らない。けれども、レコード屋の棚はやっぱり〈宇宙〉なのだ。掲載盤にはストリーミング・サービスで聴けないものも少なくないし、やっぱりレコード屋に行くしかない。そんなふうに思わせてくれる一冊だった。

同じ時代を扱ったディスクガイドとして、ミュージック・マガジンの増刊「THE GROOVY 90’S~90年代日本のロック/ポップ名盤ガイド」(すでに絶版か)や、主に90年代=シティ・ポップが下火だった時代の作品を掘り返した「オブスキュア・シティポップ・ディスクガイド」との併読も勧める。90年代という時代は、掘っても掘っても掘り尽くせない。

 


BOOK INFORMATION

松村正人, 野田努 『90年代ディスクガイド――邦楽編』 ele-king books(2021)

発売日:2021年6月4日
編集:松村正人+野田努
ISBN:978-4-909483-96-6
判型:A5判
ページ数:192
価格:2,640円(税込)
発行:株式会社Pヴァイン
発売:日販アイ・ピー・エス株式会社

監修:松村正人+野田努
執筆:大前至/小川充/河村祐介/吉本秀純/与田太郎/渡辺克己/梶本聡/武田洋/松本章太郎/Alex From Tokyo
装画:SK8THING

■目次
Introduction
Chapter 1 DJ Culture
・from Downtempo to Leftfield
 ダウンテンポ、DJカルチャーのレフトフィールド
・Club Jazz
 ダンスミュージックとしての“ジャズ”
 アシッド・ジャズからクロスオーヴァーへ
・Crue-L Records
 クルーエル・レコーズ
 90年代を体現するインディペンデント・レーベル
・Japanese Rap / Hip Hop
 ジャパニーズ・ラップ、ヒップホップ
・House
 90年代ジャパニーズ・ハウス
・Techno
 90年代のテクノとその周辺
・Roots Dub, Ska, Rocksteady
 ルーツ、ダブ、スカ、ロックステディ、レゲエとその周辺
Chapter 2 Alternative
・Boredoms and more
 オルタナティヴの発火点、ボアダムスとその周辺
・Alternative, Indie
 渋谷系、ギター・ポップ、インディ&オルタナティヴ
・Lounge, Mood, Mond and Avant Pop
 ラウンジ、ムード、モンド・ミュージックとアヴァン・ポップ
・Avant Alternative
 サイケデリック、ヘヴィ・ロック、ハードコア、ノイズ、エクスペリメンタル
・Sokkyo & Onkkyo, Others
 即興、音響、ビッグバンド、フォーク・ミュージック、97年組
Chapter 3 J-Pop
・Female Singers
 ディーヴァ~女性シンガー
・Icons
 ビッグヒット、アイドル、プロデューサー
・J Rock, Pop, Funk and more
 Jロック&ポップ
90’S Music & Culture History Chronology
平成からはじまる90年代音楽文化史年表
Index
著者略歴