前作『ANGELS』(2019年)から約1年。THE NOVEMBERSがニュー・アルバム『At The Beginning』をリリースした。9曲中7曲においてyukihiro(L’Arc~en~Ciel/ACID ANDROID)がシーケンス・サウンド・デザインとプログラミングで参加した本作は、バンドのさらなる挑戦と冒険を伝えるアルバムとなっている。
今回はその『At The Beginning』について、「痙攣」の編集長・李氏に執筆を依頼。〈チル/暴力〉を特集テーマに掲げる「痙攣 Vol.1」は、5月6日に発売されるやいなやTwitterなどの口コミで広がり、初版が即完売になった注目の音楽ZINEだ(現在増刷中だとか)。そんな「痙攣」の生みの親であり、THE NOVEMBERSの熱心なファンでもある李氏。彼のドライヴするテキストを、ぜひアルバムを聴きながら楽しんでもらいたい。 *Mikiki編集部

異常事態の中に立ち現れる〈本当のこと〉
五月のある日の午後、それは異様な光景だった。
コロナ禍で長引く自粛生活に耐えかねた僕は近所を散歩するのが日課になっていた。初夏というには幾分強すぎる日差しに照らされてiPhoneに取り込んだTHE NOVEMBERSの『At The Beginning』をリピート再生していた僕はふと帰り際、小さな公園に目を向けた。警告テープで閉鎖された遊具とサッカーボールを退屈気に蹴り飛ばす子供たち。そこには新しい生活様式、新しい日常といった空疎な言葉によって隠されてしまった何か真実めいたものが現れているように僕には思われた。暑さで曖昧になった僕の頭に小林祐介の声が鳴り響く。
〈たった今まで常識だった〉
非日常というには長すぎ、日常というには短すぎる、この異常事態の中で立ち現れる〈本当のこと〉とは一体何だろう。例外の中にある真実というような、この奇妙な感覚は一体どこからやってくるのだろう。
例外状況から真実を掬い上げるロックという音楽
このような感覚を表現することに長けた音楽ジャンルの一つにロックがある。けたたましい轟音と性急なビートの中で何かを叫ぶ唄うたい達。汗と熱気でもみくちゃになったオーディエンスの間に生まれる微かな交感。日常のルーティーンの中では決して得られない、異常な興奮と恍惚の中にある特別な手触り。僕らがロックと聞いて思い浮かべるこれらのイメージの中には、例外状況に何か確からしい物を求める感性が含まれている。例えば78年のザ・フーの“Won’t Get Fooled Again”のパフォーマンスには劇的な瞬間の中から日常のルーティーンに埋もれた生の実感が立ち上がってくるような、ある種の啓示的なニュアンスがよく表れている。無論このような形容の当てはまらないサブ・ジャンルがあることは僕も知っている。しかし演者と観客が共に限られた場所と瞬間の中に真実を求める感性をロックという音楽が受け継いできたのは確かだ。
そしてこのようなセンスを、より先鋭的により錯綜した形で表現した領野としてインダストリアル・ロックがあると僕は考えている。このカテゴリーは、スロッビング・グリッスルに始まるインダストリアル・ミュージックの系譜をシンセサイザー、サンプラー、電子パーカッションの導入といった形で受け継ぎながらそこにロック由来のヘヴィーなギター・リフを接合する方法論で特徴づけられ、今回取り上げる『At The Beginning』も基本的にはこのラインに連なる作品となっている。
インダストリアル・ロックの〈仮面〉と〈暴力〉
ではインダストリアル・ロックは例外に真実を見出すロックの奇妙な感性をどのように表現してきたのか、これから〈仮面〉と〈暴力〉というキーワードで、スタイルと音楽性の両面から説明していきたいと思う。
まずスタイルの面から攻めていこう。90年代にインダストリアル・ロックがメジャー・シーンに台頭するうえで最大の立役者となったのはみなさんご存知ナイン・インチ・ネイルズだ。今も伝説として語られる94年の〈ウッドストック・フェスティヴァル〉での泥まみれのライブ・パフォーマンスには、もうすでに非日常的なスタイルでのプレイを通じて視覚的な迫真性を獲得するという方法論が現れている。
このようなやり方をさらに過激に推し進めたのがマリリン・マンソンで、代表曲の“The Beautiful People”(96年)のミュージック・ビデオにおいてもはやモンスター的、ホラー的といえる出で立ちで歌い叫ぶさまは今観ても強烈そのものだ。
そして同様の流れに位置付けることができるのがTHE NOVEMBERSの影響源でもある一部のヴィジュアル系バンド群だ。今作『At The Beginning』においてプログラミング・シーケンス・デザインを担当したyukihiroがかつて在籍していたDIE IN CRIES『Visage』(92年)においてもビート・ロック/ゴシックをベースにインダストリアル要素を取り込んだサウンドが鳴らされており、今現在に繋がるyukihiroのニューウェイヴ趣味が表れている。さらにはBUCK-TICK『COSMOS』(96年)や、ヴィジュアル系には含まれないものの関係の深いSOFT BALLET『愛と平和』(91年)などインダストリアル・ロック的アプローチをとるバンドは枚挙にいとまがない。
彼らに共通するのがゴスの影響を強く受けた耽美的なイメージ感覚で、これはナイン・インチ・ネイルズやマリリン・マンソンと共通するものである。彼らはイメージの仮面をかぶることによって自己表現をより真実味のあるものにするというやり方を取ったわけだ。
一方音楽性においてはどうか。先述の通り、彼らはインダストリアルを新たな機材の導入で受け継ぎながらそこにヘヴィーなギター・リフを接合するというやり方を取った。ヘヴィネスを表現するためにシンセサイザーや打ち込みを導入するという発明は演奏表現に果たす機械の役割を増大させることとなったが、これは単純な生演奏以上の真に迫る暴力性をマシーンの介在によって実現しようとする試みに他ならなかった。ナイン・インチ・ネイルズの初期の代表曲“Terrible Lie”(89年)のアウトロでの、トレント・レズナーのシャウトと共に鳴り響く黙示録的シンセ使いはその最たる例と言えるだろう。
以上見てきたように、生身に対する仮面、生演奏に対する機械といった、ある種の虚構をはさみこむことによってより強い真実性や暴力性を獲得するという回路がインダストリアル・ロックの中には存在する。そしてこの論理をさらに推し進めようとした男がかつて日本にいた。hideだ。
インダストリアル・ロックの先に〈ネットワーク〉を見たhide
X(後のX JAPAN)のギタリストとしてデビューし98年に急逝することとなるhide。クラシックに影響を受けたHR/HMとも言うべきバンド本隊の音楽性に対しインダストリアル色を強めたソロ・アルバムは確かに90年代における先述の流れとも共振していた。その後彼のインダストリアル・ロック的アプローチは継続し、X JAPANの解散後はhide with Spread Beaverとzilchという2つのプロジェクトを始動させる。精力的に活動を行っていた彼には大きな期待が寄せられていた。98年5月2日、ドアノブに首を吊った状態でhideが発見されたのはその矢先のことである。
hideがもし生きていたら、その後の活動が具体的にどのようなものになったのかは分からない。しかし、彼の2つのプロジェクトはインダストリアル・ロックの論理のさらにその先を示唆していた。それは何か。ネットワークだ。
つまり、偽りに真実を求める態度の先にあるものとして、虚構を介したコミュニケーションの網としてのネットワークを描き出すこと、その可能性を引き出すことにhideの目線は向けられていた。
「ほら、WEBって蜘蛛の巣じゃん? 最近僕がエネルギーを使ってることっていったら音楽とWEBだったりするから。そこから“今、何がポップなんだろう?”と思ったらスパイダーだったの」(「UV」98年5月号)。
彼自身がインタビューで98年のシングル“ピンク スパイダー”についてこう語っているように、あるいは〈君は 嘘の糸張りめぐらし/小さな世界 全てだと思ってた〉という歌詞に表れているように、インターネットというテクノロジーはhideにとって大きな主題となっていたと音楽ジャーナリストの柴那典は指摘する。この指摘に付け加えるならば国境を越えた通信網というイメージは元プロフェッショナルズのレイ・マクヴェイ、元キリング・ジョークのポール・レイヴンを擁したzilchの国際的な活動やヴィジョンとも結びついていた。
このような様々な可能性を残して彼はこの世を去ってしまった訳だが、その後インターネットが社会のありとあらゆる側面に浸透し、もはや水や空気と変わらない不可視のインフラストラクチャーと化した現代においてhideの投げかけたテーマはある種の予言とすら映るかもしれない。
しかし現代のインターネットの世界が、自らを真実と言い張って憚らない偽りや、匿名という仮面を被りながら言葉の暴力に興じるつまらない連中のはびこる荒野であることを僕らは痛いほど知っているはずだ。そしてよりクリティカルな変化は、終点も始点もなくただ繋がりだけがあるという蜘蛛の巣=ウェブの想像力が新型コロナウイルス感染症の全世界的パンデミックという現実的危機によって塗り替えられてしまったことだ。hideの死去から22年、世界は様相を新たにしようとしている。
THE NOVEMBERS『At The Beginning』で歌われる〈消失点〉の向こう側
『At The Beginning』というアルバムはそんな時代を生きる僕らのサウンドトラックでありドキュメントだ。始まりも終わりもない蜘蛛の巣で繋がれた世界で、ここが始まりであり終わりであると宣言すること。かつてのhideと同じインダストリアル・ロックの形式を貫きながらも彼とはまた別の可能性をTHE NOVEMBERSが模索することの意味を僕はここで考えたい。
先述のインダストリアル・ロックの議論にのっとるなら『At The Beginning』はまさにその論理に忠実な作品だと言える。先日公開されたアーティスト写真における小林祐介のマリリン・マンソンを彷彿とさせる異様な風体。前作『ANGELS』(2019年)以上にギターの比重を下げエレクトロニクスを大胆に導入したサウンドとその暴力性。まさにここには虚構でもってより真に迫る表現を聴き手に突きつけようとする態度が現れている。
では『At The Beginning』というアルバムの中から立ち現れる真実とは何だろう。一言で言えばそう、断絶だ。主に歌詞の面で表現されるそれは過去と現在の、自己と他者の、現実と虚構の、演者と観客の断絶であるわけだが、これらは全てコロナ禍によって日常が一変する中で生じた喪失感を思い起こさせるものだ。まさに僕が遊具の閉鎖された公園で直面したように。
いつか忘れてしまわないよう
心に刻んだはずの景色たち
思い出せるのは「きっと忘れない」て言葉だけ
写真を撮ったことも忘れて
“薔薇と子供”
昔話の神様が
継ぎはぎだらけの
布切れのように揺れる
“Dead Heaven”
何かを思い出しそうな
夢を見ただけで
なぜ勝手に涙が溢れるの
“楽園”
冷蔵庫の中で
賞味期限切れのファンタジー
“New York”
これらの歌詞には圧倒的な断絶とそれによる喪失の感覚が刻まれている。時間軸のある一点を境に世界が激変してしまった感覚。『At The Beginning』という題にコロナ禍の始まりを重ねて見るのはあまりに容易い。
しかし新作の仮タイトルが〈消失点〉だったことも踏まえるとまた別のニュアンスが込められているように僕には感じられる。それは何か。
遠近法で奥に向かって集束する先にある消失点は、風景全体を規定し絵画や図のリアリティーを担保しながら、それ自体は虚構であるという性質を持っている。これはまさに虚構を介在させることにより強度を獲得するインダストリアル・ロックの論理と相似である。例えば打ち込みのシーケンスと演奏の同期にともない後者に演奏の正確性が求められるといった局面はまさに虚構が現実を規定するケースだ。そして消失点からパースが引かれ風景が立ち上がるように、仮面と演者、機械と生演奏が結びつくことでインダストリアル・ロックはリアリティーを獲得する訳だ。
今から一本だけ補助線を引いて
いままで見えなかった風景
聞こえなかった声達を
迎えに行こう
その瞬間
世界が変わる
“消失点”
重要なのは絵画における遠近法の習得に一定の訓練が求められるように、インダストリアル・ロックにおける真実性の獲得も意志と鍛錬の産物に他ならないという点だ。化粧を施し衣装を着て巧みにイメージの仮面を纏おうが、実際のパフォーマンスがそれに見合わなければただの戯画にしかなり得ない。
そして『At The Beginning』の最後を飾る“開け放たれた窓”ではさらにこれを推し進め、風景の限界を規定する消失点を意志の力によって突破しようとする思いが歌詞の中で語られる。
何か大事なこと言わなくちゃ
何か大事なこと知らなくちゃ
透明な壁を壊して
ペンで引かれただけの
水平線を越えて
“開け放たれた窓”
コロナ禍の時代に消失点の向こう側を歌うことの意味は重い。何故なら終わりも果てもない感染のネットワークが世界を蹂躙する2020年において、このイメージは明確にそれに抵抗するものであるからだ。風景の終点たる消失点を越えること。At The Beginning。まだ見ぬ終わりと始まりに向かって、ひたすらTHE NOVEMBERSは歩み続けている。


