雑多なジャンルがごった煮になった『サンセット・ギャング』
――何年頃のお話ですか?
「72年ぐらいだったかな。73年はラリーズと夕焼けが両方存在していた。そうこうしているうちに最初のソロ・アルバム『まちぼうけ』が発表になり、(レーベルの)トリオからアルバムを作ろうという話が来て、次第にどんどん忙しくなっていく。そして作ったのが『サンセット・ギャング』」
――『サンセット・ギャング』はリリース直後から話題になりましたね。
「その年はちょっとしたバンド・ブームだったんだけど、夕焼け楽団はその先駆けだった。シュガー・ベイブのアルバム(『SONGS』、75年)や、ウエスト・ロード・ブルース・バンド のような関西のブルース・バンドも少し後。彼らは、デビューが1、2年遅かったんだよ。
で、当時そういう日本のバンドがあまりいなかったせいもあって音楽雑誌ですごく大きく取り上げられたんですよ。見開き1ページだったんだけど、右側のページがブレバタ(ブレッド&バター)だったな。ちょうどイーグルスがブレイクしたり、サーファー・カルチャーも広がったりだとか、そういうタイミングで夕焼け楽団が有名になっていくわけ」
――『サンセット・ギャング』のクレジットで驚かされるのは、作詞家として活動を始めた頃の松本隆さんがドラムを叩いている曲があること。
「そういうのもホント無意識というか、偶然そうなったんだよ。正田俊一郎の叩けないような曲がいろいろあってね。いいドラムを叩くんだけど、ヒッピー道まっしぐらだったんで、彼は。ちょっと困っていたら、吉野さん(エンジニアの吉野金次)が松本くん呼ぼうか、と言いだして。まさかここではっぴいえんどとは。このアルバムでの彼の印象は、無口で、バシッと叩いて、お、さすが渋くて上手だなぁって思ったかな」
――本作独特の趣として、ブルース・ジャムの“サンセット・サンセット”が入っていたりすることで。
「あれはOZでよくやっていたブルース・セッションをそのまま持ってきたもの。OZはブルース・バンドも多かったから。レイジー・キムという変わった奴がいて、アメリカの高校を出て、大学は早稲田だった。そのレイジー・キム・バンドに妹尾ちゃん(ハーピストの妹尾隆一郎)も入っていて、チャールズ・マッスルホワイトのバンドのようなしっぶいブルースをやっていた」