連載

【その男、濱口祐自】第10回 はみ出しインタヴュー1:メジャー・デビューしてからの〈これまで〉を赤裸々に振り返る

「あのアルバムがあったおかげで、ライヴがやりやすくなったのは確かやね」

【その男、濱口祐自】第10回 はみ出しインタヴュー1:メジャー・デビューしてからの〈これまで〉を赤裸々に振り返る

前々回にお届けした『濱口祐自 ゴーイング・ホーム』についてのインタヴューからはみ出してしまった部分をご紹介。今回は、メジャー・デビューしてからの〈これまで〉を振り返ったお話を。
*インタヴューはこちらから

 


 

「これまでを振り返って? まぁ、いろいろあったけど……たくさんの人に知ってもらうことができたのは大きかったわね。2013年10月のSARAVAH東京でやったライヴからやの、東京に出てくるようになったんは」

――ユウジさんにとってデビューするというのは晴天の霹靂だったと思うけど、まさかこの2年でこれほど状況が変化するとはさすがに予想してなかったんちゃあう?

「そうやのう。何よりもライヴが増えたのが助かる」

――メジャー・デビューできてよかったねぇ!っていう周りの声をどう感じてらっしゃった?

「知ら~ん。本人としてはやっとることはこれまでとまったくいっしょやのによう。そこに、良かった、悪かった、って差をつけることも別にないよねぇ。別に、こっちからお願いですからデビューさせてください!って頭下げたわけじゃないしねぇ。デビューした頃を振り返って? まず〈フロム・カツウラ〉がパーフェクトな自分の演奏じゃない、というのが大きかったね。ヘンな感じがしたわ。でも世の中に出してしもたからのう。それに作品を気に入っとる人も多かったからよう。フィフティー・フィフティーってとこかい。もういまは割り切れたけど、最初はどえらい嫌やったよ。だいぶ悩んだわ」

――悩みのピークって発売前?

「去年の2月ぐらいやったかい。いままでの人生で感じたことのストレスやった。初めてや、あんなん。自分の作品を作って、なんで落ち込まなあかんのかって思った」

――それは不安やったってことじゃないんですか?

「不安は別になかったんやけどね。なかには不本意な演奏もあったしのう。それが製品になってしまったわけやからね。もし自分で録っとったら、こんな演奏してなかったに違いない、これやったら絶対にNGにしとるって思ってならんかった。でも、あのアルバムがあったおかげで、ライヴがやりやすくなったのは確かやね」

――みんなの好評価をもらって、徐々に気持ちも変わっていったと。

「そうやね。自分じゃこんなのたいしたことないのによう…って思うこともある。まぁ、俺らみたいに作る側が厳しく細かくチェックするのと違って、みんな心地良く聴こうとしてくれるもんね。どうしても粗探ししてしまうけど、買う人はそういうふうに聴かへん。とはいえ、作品が100%のものやないって気持ちはどうしても残こっとる。このペースが続くようやったら、精神がもたん思ったもん。何もかも自分の手で、納得いくまで時間をかけて作ってきたからよ。そこに聴衆の評価が入り込む余地はないんや。とにかくとことん追求したものを作る。それが売れようが売れまいが、良いと言われようが悪いと言われようが、ぜんぜんOKなんや」

――『竹林パワーDream』(現在のタイトルは『竹林パワーの夢』)のときに得た手ごたえとは違いますか。

「あのときは、これはOKテイクになる!っていうのは弾きながらわかったしね。そういうのをひとつずつ溜めていって、1枚の作品を作り上げたんや。出来上がったときには、泣いたよ。やっとできたと思って。“Bamboo Flower”のときは手こずった。6分半ぐらいある曲やろ。あれはなかなか納得いくもんが一発で弾けなんでよう。しまいには、もう録れんのちゃあうか?って思えてきて。あの曲を録りたいがためにアルバムを作ろうと思い立ったのによう。それで1回、山を歩いて気分転換してから、もう1回チャレンジしたら何とか録れたんやけどね。アルバム作るってツレらに宣言したものの、途中で、完成するんかいな?って不安になってよう。レコーディングも初めてやし、全部我流やったからね。サウンドの面でもだいぶ追い込んで作ったし、いま聴いてもぜんぜん嫌じゃない。いままでに聴いたことのないようなCDの音しとるし。ライン録りやろが、マイク録りやろが、聴く人にとっては内容が良かったらそれでええんやから。グレン・グールド式や。良ければ良いってこと」

――これまでの自分自身のやり方を変えないために何らかの努力をした、なんてことはなかった?

「なんもない。ギター弾くのなんて、どこでもいっしょやん。東京やろが、地元でやろが。中で弾こうが、外で弾こうがよ。ひとつひとつのライヴごとにやりたいことをやり切るのが大事なんちゃあうかと思うね。いまのあるがままを見せる。いまどうやって生きているか、ってことを伝えると。それをいつどこの場所でもすぐ見せられるよう、つねに準備しておく。やっぱそれやで。それを続けていかんとお客さんも、1回観ただけでもうええわ、ってなってしまう。それからライヴが終わってからお客さんと喋ったりするやん。そんなんもライヴの一環やと思ったあるよ。お客さんと演者の関係を超えて、ツレになるのが大切なんや。来てもうておおきに、って感じで挨拶してちょっと雑談してよう。それが小さいところでやる意義やのう」

――ツレになれるかどうかは、ユウジさんにとって大事な判断基準。

「そもそもよう、何百人もお客さん集めるタイプの音楽ちゃあうもん。ギター・ソロなんていうのは、指の動きとか表情とかちゃんと見えるぐらいのところでやらなあかん思う。それにステージの上と下という関係になるのも嫌やのう」

――膝を突き合わせながらやるようなライヴが好きになった理由ってあるんですか?

「1987年やったかな、竹林パワーを開いた次の年ぐらいに市民会館を借りてやろうと思ってね。あそこ2,000ぐらい入るんやけど、100何人来たんやで、初めてやったライヴやのに。そのあともう1回ぐらいかなり入る場所でやったんやけど、すごい違和感があった。ギター・ソロはああいう場所じゃ伝わらんのう。ずいぶん遠い感じがしたわ」

――ユウジさんがよく言う、自分の部屋で鳴っているようなギターの音を聴かせたい、って意識ともつながっとるわけですよね?

「そうやのう。ライヴハウスへ行くとPAさんとかいろいろやってくれるけど、ほんと言うとほらくっといて(ほったらかしにしといて)くれるのがいちばんええんや。いろいろ手伝われるのがいちばんあかんのや。配線とかも含めて何年もかけて研究してベストな形を作り上げとんのやからよう。勝手に他人の機材をなぶる(触る)人の気がしれんね。そこらへんがどんどん不自由になっていくのが何より嫌なんや。30人ぐらいのお客さんが来てくれるライヴがいちばんええかな。言うてしまえば、小企業みたいなもんや。機材も何もかも自分で用意して会場に入り、日銭もらって帰るという。それでええんちゃあうと思わへんかい。よってたかって大きいところでやらせようとするけどよう。アイドルちゃあうんやし、好きなようにさせてくれ、と思うわ」

――ハハハ。その発想ってバンドに向かわなかったことにも通じているんですか?

「そうやのう。起年(濱口さんの弟)らとやったアコースティックのトリオはよかったけどの、やっぱバンドはめんどくさいで。この人とやったら、ってメンバーもそう簡単に見つからんしのう。聴くのは好きやけど、やろうとは思わんね」

――ユウジさんが感じる、東京のええとこ悪いとこは?

「やっぱり自分の車で好きなように回れんところやね。ええところは、お酒が飲める店が山ほどあるところ。人との出会いもいっぱいあるしよう。去年の春からずっと1か月に1回ペースで来とるよねぇ。で、1回の日にちが1週間から10日ぐらいに長なっとる。年に4回ぐらいにできたらちょうどええんやろけどね」

――でもそのことが勝浦の良さを見直すきっかけにもなったんやもんね。

「歳とってきたよってさらに良く思えるのう。それがこれからは紀伊半島一帯を中心にライヴ活動をやっていきたいって考えに通じとる。勝浦の周りでもいままで知らなんだ人と出会いが増えとるしねぇ。それは嬉しいね。ただ、東京とかほかのところも自分の車で回れるならどんどんやりたいんやで。今度のCD(『濱口祐自 ゴーイング・ホーム』)が出たら、またちょっとは広まるやろね。いままで以上にね。ただまぁ自然の流れに任すわ」

――振り返ると、この2枚目が出るかどうかすら危うかった時期もありましたね。

「ククク。あの頃は1枚にしてほしかったって気持ちが強かったからね、ホンマに。でも、今回は思ったよりもイヤやない作品が出来たから、まぁええか。“Caravan”の出来もまあまあやしの」

――でもほんと、去年の夏ごろこちらは不安でしょうがなかったんですよ。

「まあのう。したくないことはできんで、って気持ちをしっかり伝えて、受け入れてくれたことがよかったんやの」

――ところで、この〈ゴーイング・ホーム〉ってメッセージはどう受け止められるんでしょうかね。

「どうやろのう。でも、紀伊半島でやっていける手ごたえがあるからね。いつも思うもん、ライヴをやってひとりもお客さんが来んようになったら廃業しようって。ただ、たったひとりでも来てくれる限りはやるよ。前に一度、田辺であったんや、開演時間で誰ひとりもおらんってときが。これは初のゼロか……と思いよったら、ひとり来てくれてよ。こちらもプロやから、いつもと同じ演奏をやったわな」

――で、廃業することになったら?

「最後は、自分のために弾いたらええんやもん。音楽が好きでギター弾いとるんやからよう。これまでたくさんの喜びを与えてくれた音楽とひとりでじっくりと向き合うことにするわ。若い頃は、夕方になると家の周りで酒飲みながらギター弾いとった。あれがいちばんしあわせなんや。いまはみんなに聴いてもらえとるけど、出発点はやっぱり自分のために弾いてたんやもんね。ただただ弾きたいさかい、曲をマスターしたいさかい、ギターに向き合ったんやからね。そのことだけは音楽を好きになってから、ギターを弾き始めてからずっと見失ってないのう。そんな感謝すべき音楽のおかげでライヴができて、生活費も稼げるんやで最高ちゃあう? 上等やで。もちろん、ひとりもんやでこういうこと言えるんやで。そりゃ家族おって、子供おってこんなこと言うとったらあかんやけどよう(笑)」

――(笑)

「でもいまのこの状況、親父が生きとったら喜んだやろな、思ってよう。テキ(彼)も内心、本当にやっていけるんか?みたいな感じやったんちゃあうん? まぁ親孝行はできなんだけど、親不孝もしてなかったからよう。人に借金したこともないし、ギリギリOKやったと思うけどね」

――ユウジさんが臨時教員として高校へ教えに行くと言うたとき、武さんが叱ったってエピソードが忘れられないですよね。

「お前、欧州へ行くって言うとんのにそんなことやっとる場合ちゃあうやろ、ってね。テキもアーティストやったからよう。『竹林パワーDream』を作ったときはどえらい喜んでくれたで。CDかけながら、絵を描きよったよ。それから、ツレに土産として持っていったりね。俺の音楽が具体的に作品として形になったことをだいぶ喜んどったね。考えたら、あれが親孝行かもしれんね。それから〈Dream〉の中ジャケにオヤジの画も使ったのも嬉しかったんちゃあうか? 死ぬ前、兄弟4人にそれぞれ画を残したるわ、言うてよ、あのタイプの画を描いてくれたんや。同じサイズの油絵でよ、ちょっとずつ違う波の画やった」

――きっと、どんなことがあってもお前は変わるな、ってことをお父さんが教えてくれたんやね。

「うん、そうやね。親父はなにせえかにせえとか、いっさい言わなんだもんね。親父も俺が中学校のとき、怪我して4、5年入院しとったことがあって、その影響もあるんちゃあうんかな。生きとる限りは自分のやりたいことをやれっていう」

 


次回は『ゴーイング・ホーム』を作り終えた彼の〈これから〉のお話をお届けします。

 ★連載〈その男、濱口祐自〉の記事一覧はこちら

 

PROFILE:濱口祐自


今年12月に還暦を迎える、和歌山は那智勝浦出身のブルースマン。その〈異能のギタリスト〉ぶりを久保田麻琴に発見され、彼のプロデュースによるアルバム『濱口祐自 フロム・カツウラ』で2014年6月にメジャー・デビュー。同年10月に開催されたピーター・バラカンのオーガナイズによるフェス〈LIVE MAGIC!〉や、その翌月に放送されたテレビ朝日「題名のない音楽会」への出演も大きな反響を呼んだ。待望のニュー・アルバム『濱口祐自 ゴーイング・ホーム』も好評を博しており、10月6日(火)には渋谷WWWで久保田麻琴がライヴ・ミックスを行い共演者として高田漣を招くライヴを開催! 最新情報はオフィシャルサイトにてご確認を。

関連アーティスト
TOWER DOORS