ブライアン・イーノたちがやっている音楽がアンビエント・ミュージック=環境音楽と呼ばれるのなら、自分がやっているのは〈観光音楽〉だ。それなら、〈全方位観光〉を意味する〈omni Sight Seeing〉を自作のタイトルに冠してしまえ。いかにも細野晴臣らしい遊び心である。

環境音楽ならぬ、観光音楽。しかし、これは単なる言葉遊びではない。細野は自身の活動において一貫して〈ここではないどこか〉への憧れを音楽に込め、煌びやかに昇華してきた。それを踏まえれば、観光音楽というのは細野の音楽活動の根幹を捉えたワードだということがわかるだろう。そして本作は、ライ・ミュージックや日本民謡、ラテン音楽といった多彩な音楽を通して、まだ見ぬ場所へ憧れずにいられない自分自身を表現した、細野の音楽人生における一つの集大成とも言える仕上がりとなっている。

とはいえ、観光と環境は決して無縁ではいられない。細野が誘う観光(音楽)にも、やはり環境(音楽)の要素が含まれている。たとえば、後に『Vu Ja De』(2017年)で歌ものとしてリメイクされることになる名曲“RETORT”にはペンギン・カフェ・オーケストラあたりに通じる〈とぼけた静謐さ〉とでもいうべきニュアンスが漂っているし、エスニック風味の“KORENDER”にはイーノのアンビエント作品、特にハロルド・バッドとの共作アルバムである『Ambient 2: The Plateaux Of Mirror』(80年)や『Pearl』(84年)との親近性が濃厚に感じられる。

環境音楽を奏でるというのは、一種のトンネルを見出だす行為だと言える。ここで言うトンネルとはつまり、作品世界のなかに現実世界が流入すること、あるいは逆に現実世界に作品世界が影響を及ぼすことを可能とする、通路の別名である。したがって環境音楽の要素を内包した観光音楽は、架空のものであると同時に現実世界に通じてもいる。もはや観光旅行は、音声メディア内で完結するものではいられないというわけだ。

いや、その言い方は正確ではないだろう。本当はどんな音楽作品であっても、そもそも音声メディア内で完結などしていない。〈作品と現実は峻別しうる〉という考えは、西洋クラシック音楽の作曲家が作品の純度を強迫的に追求する過程でいつの間にか作り上げていた幻想である。そうした幻想が音楽聴取における通念となっていることに問題提起したのがブライアン・イーノであり、あるいはその精神的父祖であるエリック・サティやジョン・ケージといった人々であった。そして本作での細野も、観光音楽を通してその系譜に連なっているように感じられる。

さて、本作は11月3日の〈レコードの日〉にアナログ盤としてリリースされた。これは、国内においては初めてのアナログ化となる。またそれに合わせ、砂原良徳の手によって最新リマスタリングが施されている点も見逃せない。

当時の細野がアルバムに封じ込めた観光旅行は30年以上の歳月を経てもなお、鮮度を保っている。レトルトされたそれを開封し現在の体験として蘇らせるのは、あなただ。