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シティ・ミュージック、日本のポップスの歴史を垣間見ることができるドキュメンタリー

 74年12月からスタジオ業務を開始し、日本の音楽シーンの変遷と共に歴史を積み重ねてきた音響ハウス。相原裕美監督の「音響ハウス Melody -Go-Round」は、この由緒あるレコーディング・スタジオにスポットをあてたドキュメンタリーだ。同映画には坂本龍一や高橋幸宏、松任谷由実、佐野元春などのミュージシャンに加えて、音楽プロデューサーの牧村憲一も証言者として出演している。

 牧村は74年、大森昭男のON・アソシエイツ音楽出版に入社した。大森は、大滝詠一にとって初のCM音楽である三ツ矢サイダーの“サイダー73”をはじめ、数々のCM音楽を手掛けたプロデューサーだ。そもそも大森昭男に大滝詠一の存在を教えたのは牧村で、それが縁で彼は大森のもとで働くことになった。

 「当時大森さんがCM音楽の制作のために使っていたスタジオは5~6か所ありましたけど、クォリティーの高いCM音楽を作ることができる予算を与えられていたときは、優先的に音響スタジオを使っていました。音響スタジオは東京都内でもっとも設備が整っていて、しかもレンタルで使うことができたから。僕がONに入社直後に初めて音響スタジオの現場を任されたのは、照明やインテリアを扱っていたヤマギワのテレビCM。このCMは、映像が写真家の操上和美さんで、音楽はこの映画にも出演しているキーボード奏者兼作曲家の井上鑑さん。当時井上さんは、まだ桐朋学園大学の学生でした」

 音響ハウスには74年の時点で、16トラックのレコーダーが導入されていた。この機材を、自前のスタジオを持っていないレコード会社や音楽事務所がレンタルで使用できるという点に当時の牧村は色めき立ったという。

 「目黒区にあった毛利スタジオが71年頃に4トラックから8トラックのシステムに変えたんですけど、それだけでも当時の音楽関係者の間では大きな話題になりました。それが音響ハウスでは、16トラックで録音できるというのだから、目の色が変わりました。それまでは8トラックでピンポン録音を駆使してレコードなりCM音楽を作っていたわけですけど、音を重ねていくごとに音質が劣化していく。だから洋楽のレコードを山ほど聞いていた僕たちは、不満を抱いていた。日本において、エンジニアの意識が高くなったのもこの頃で、現場の一部の人間はビートルズに負けない音を録ろう、と本気で考え始めていた。そんな時に音響ハウスが設立され、自分たちの夢がひとつの形になったわけですから、すごく興奮しました。また、機能の異なる1スタと2スタを、同じビルの中に作ったことも、音響ハウスの重要な点だと思います」

 牧村にとってもっとも思い出深い音響ハウスでの録音のひとつが、当時まだ大学生だった竹内まりやの『UNIVERSITY STREET』(79年)に収録されているカーラ・ボノフのカヴァー“イズント・イット・オールウェイズ・ラヴ”だ。演奏を務めているのは、79年3月初旬に来日していたリンダ・ロンシュタットのバック・バンド。ワディ・ワクテルやラス・カンケル等の演奏は、音響ハウスの1スタで録音された。

 「今でもはっきり覚えていますけど、それまでに僕が経験した録音と比べて、スタジオのモニター・スピーカーの鳴りが全然違った。天と地ほどの差があったと言ってもいいほどで、どうしてこんな音が違うんだろうと思いました。演奏者それぞれのリズム感や縦の線の揃い方など驚いた点はいくつかありますけど、もっとも強烈だったのは、音そのものの響き。当時の日本のスタジオでは、音量はスピーカーを破損しないように抑え、なおかつ全体のバランスを重視して調整するというのが常識だった。ところが、ベーシストが一音を弾いただけで地響きがした(笑)。その瞬間、僕の音楽観がころっと変わりました。ただ、音響ハウスの1スタは、そんな米国のミュージシャンの演奏にも耐えていた。つまり音が割れなかったという点も、印象に残っています」