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加藤和彦という人は果たして、知性の人なのか、感性の人なのか? 今井裕が語る音楽家・加藤和彦

 「SUKITA 刻まれたアーティストたちの一瞬」、「音響ハウス Melody-Go-Round」などのドキュメンタリー作品を手掛けた相原裕美監督の作品、「トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代」をいち早く見せてもらった。以前から高橋幸宏の提案で、加藤和彦のドキュメンタリーを作っているらしい、ということは聞いていたが、60年代から加藤和彦の音楽作品の数々を聞いてきた人間にとって、あの多才な加藤和彦を映画にまとめるのは至難の業となるだろう、と危惧していた。しかし、完成した作品は、高橋幸宏を筆頭に、北山修、松山猛から、小原礼、高中正義、つのだ☆ひろなどのバンドメンバー、坂本龍一、清水信之などのミュージシャン、クリス・トーマスや元マネージャー、レコード会社スタッフなど、各時代の関係者や友人たちの証言をもとに、実にシンプルに彼の華やかな足跡を辿るわかりやすい作品に仕上がっていた。特に、今の時代の人たちに、改めて加藤和彦、という文字通りのアーティストを知ってもらうにはいい作品だろう。60年代後期、当時としては珍しい、自主制作、という形でデビューした、ザ・フォーク・クルセダーズ。今でいう、アシッド・フォークのようなソロ・アルバム。いきなりグラム・ロックを目指し、実際にイギリスで評価され、現地でツアーも行った、サディスティック・ミカ・バンド。そして世界各国を飛び回り、いろんな音楽と文化を昇華させて作った80年代作品の数々など。いつも時代の先を走る天才ミュージシャンだった加藤和彦がどんな人物だったのか、がこの映画で分かりやすく描かれている。

今井裕

 この映画でもインタヴューされている、サディスティック・ミカ・バンド時代のキーボード奏者、今井裕氏に改めてインタヴューをさせてもらい、映画に入りきれなった話をいろいろとうかがった。

 「初めて加藤さんに会ったのは、1970年。当時、谷村新司のバンド、ロック・キャンディーズでウッド・ベースを弾いていたときに、のちにアリスや佐野元春の事務所を立ち上げる、細川健が企画した、カナダ・アメリカ・ツアー、〈ヤングジャパン国際親善旅行〉フォークキャラバン、にロック・キャンディーズとして参加し、アメリカの大学生との交換会、サマー・スクールを巡るツアーに、加藤さん、北山修、も参加しており、その時が初めての出会いでした。まだドノバンに影響を受けていた感じで、ジョン・レノンのような恰好をして、サイケデリック・フォークみたいな歌を歌ってました。そのツアーの途中、バンクーバーでの加藤さんとミカとの結婚式も立ち会っています。当時少し話をしましたが、まだ、加藤さんも方向が定まっていなかったのか、少し頼りなさげで、あのウッドストックの翌年ということもあり、サイケデリック文化に感化されていて、とにかく現地で体験するいろんなことにダイレクトに刺激を受けている素振りでしたね。その後、私も上京し、小原礼に呼ばれて、ミカ・バンドのファースト・アルバムのレコーディングに遊びに行って、その時、何曲か演奏に参加したのが、結局、オーディション代わりになっていたのか、『黒船』レコーディングの際に正式に呼ばれてミカ・バンドに参加しました。確かシングル“ハイ・ベイビー”のエレピは私の演奏のはずです。

 まずビックリしたのが、スタジオにはフェンダー・ローズ、クラヴィネット、アープ・オデッセイ、ミニ・ムーグなどが加藤さんの私物として用意されていたこと。イギリスからクリス・トーマスを呼んで、ブリティッシュなサウンドを目指すには、これらの楽器は必要だろうと、ミュージシャンより先に用意されていたことでしたね。一流シェフはまずナイフなど、一流の道具を揃えるところから始める、と言いますが、加藤さんも、楽器やミュージシャンを揃えれば、あとは大丈夫、という感じだったのではないでしょうか。ミカ・バンドでは、お互いほとんど音楽の話はしなかったです。主にファッションの話かな。映画の中でも出てきますが、ベーシックな録音が終わると、加藤さんたちはスタジオを飛び出して映画を見に行ったりするので、私のキーボード・パートなどはほとんどノーチェックでしたから。

 今回の映画を見て、松山猛とも話したんだけど、加藤和彦という人は果たして、知性の人なのか、感性の人なのか、という疑問が今も解き明かされずにいます。ひとつの目標に向かって、その周辺の資料や情報をすべて集めて吸収し、一流に仕上げるのですが、まとめ上げるときには、意外と自分は関与せずに、集まった(一流の)スタッフに委ねてしまう。そしてまた、どこからともなく、次の興味の対象に移るときには、それまでのものを全く引きずらずに邁進していくという。緻密さを追求するのではなく、もう少し軽い感じで、みんなを上からみてくれている人。プロデューサーよりもさらに上から見ている人だったのだと思う。知性と感性のバランスが普通の人とは全く違った次元で合わさっていたのではないだろうか。そういえばひとつ思い出したことで、アルバム『ホット!メニュー』の最後の曲“テキーラ・サンライズ”のウッド・ベースは私が弾いているのですが、あの、アメリカでの最初の出会いが循環してますね。」