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ジョン・レノンが愛したオノ・ヨーコ

オノ・ヨーコと、彼女がビートルズやジョン・レノンに与えたインパクトについてはすでに多くの著作がある。ヨーコは彼女自身が非常にユニークなアーティストで、ジョンに自分の作品を見せ、ジョンの作品を一般的なポップ・ミュージックから、それを超越した音楽、商業的でない音楽へと変えるためのインスピレーションと機会を与えた。

ヨーコはジョンに出会う以前、クラシック音楽の作曲家である一柳慧や、映画プロデューサー、アンソニー・コックスと結婚していた。コックスとの間には娘のキョーコがいるが、ヨーコはコックスとの離婚後、キョーコが31歳になるまで会うことができなかった。一方のジョン・レノンもシンシア・パウエルと結婚して息子のジュリアンをもうけたが、ビートルズ・ファンには結婚の事実自体を隠していた。

乱気流のような激しい関係の中で、ヨーコとジョンは一緒にいることで精神的な落ち着きを感じ、芸術的な至福の時間を過ごした。75年、ジョンとヨーコの間に息子のショーンが生まれると、ジョンは音楽活動をストップして父親として家庭人らしい生活を送り始める。80年にジョンのカムバック・アルバム『Double Fantasy』が発売された際は様々な批判も多かったが、その理由のほとんどは、収録曲の半数がヨーコのものだからであった。80年12月8日に起きたジョンの悲劇の後、このアルバムはラジオで盛大に取り上げられ、特に収録曲“Woman”はシングル・カットされ、UKチャート1位、アメリカ・チャートでも2位を獲得する。この曲は、ヨーコという妻に対する柔らかな愛と感謝の歌だった。

 

ポール・マッカートニーをサポートしたリンダ・イーストマン

リンダ・イーストマンはアメリカの写真家で、ニューヨークの裕福な家の出身だった。彼女の父親はエンターテイメント業界専門の弁護士で、画家や、著名なミュージシャンのトミー・ドーシー、作曲家のハロルド・アーデン、ジャック・ローレンス(フランク・シナトラの最初のソロ・ヒット曲や、サラ・ヴォーンの曲を手がけた)などが顧客に名を連ねている。リンダが5歳の時、ジャック・ローレンスは彼女のために“Linda”という曲を書き、1946年のレイ・ノーブルのナンバー1ヒットとなった。

リンダは大学時代に自然の写真を撮り始め、そこからポップ・グループの写真を手がけるようになり、ポール・マッカートニーと出会う。ポールは彼女の独立志向と美貌を気に入り、結婚。ビートルズの解散後、ポールは非常に荒れて酒に溺れたが、リンダのサポートと作品に対する深い理解により復活する。この後、マッカートニーの代表作と呼ばれるラヴソング“Maybe I’m Amazed”が発表されるが、これはリンダがポールの中から引き出した多くの曲のうちの一つに過ぎなかった。