山梨で暮らしながら創作活動を続けるグル
現代音楽界を代表する巨匠の一人テリー・ライリーが約2年前から日本で暮らしていることは本誌読者の多くがご存知のはず。2020年9月の〈さどの島銀河芸術祭〉に参加することになっていたライリーが、現地(佐渡ヶ島)視察のために来日したのは同年2月だった。コロナ・パンデミックが全米で大爆発するまさに直前。果たして、佐渡ヶ島での視察後に米国への帰国が困難になり、しばらく足止めをくったライリーだったが、日本の文化や風土を気に入った彼は自らの意志でそのまま滞在を延長したのである。爾来、山梨県の某所で暮らしてきたライリーは、去る3月16日にはビルボードライブ東京でコンサートもおこなうなど、作曲家/演奏家として旺盛に活動を続けている。この6月には87才になる巨匠に近況などを聞いた。
――滞在期間も2年を超えましたが、日本での生活はどうですか。
「とても楽しく、仕事もはかどってます。ここ山梨の田舎は音楽を作るのに素晴らしい環境だし、日常のライフスタイルも私に合ってます。日本の文化や社会も好きだから、とても居心地がいいですね。正直、米国での生活以上に今は幸せを感じています。少なくとも年内(2022年)は日本で仕事を続けたいですね。ただ、仲間と連絡をとるのに手間がかかるのがちょっと大変なんですが。インターネットで全部こなさないとならないので。特に息子のギャン・ライリーとは近年よくツアーしていたんですが、もう2年以上も会っていません。私たちは1年に5回程度ツアーしていたんです。それが寂しいですね」
――日本での生活や風土が自分の創作活動に影響を与えた点は何かありますか。
「確かに影響していると思います。日本の芸術には以前から関心がありました。たとえば書道とか。私はこれまでも作品を簡潔にしようと試みてきましたが、それは日本の芸術家の特質でもあると考えています。彼らは思考を、ある単純な身振りにまで洗練することができ、しかもそれがとても効果的で、表現に富んでいます。そういう点での影響を受けていると思います」
――70年代にはインドにもよく行ってましたよね。
「何度も行きました。初めの2度はそれぞれ6ヶ月間滞在して、それ以降は1ヶ月とか6週間といった短期滞在でした。特に、インド声楽の師匠パンディット・プラン・ナートが存命中には頻繁に行き来してました。私にはたくさんのインド人の友人や音楽仲間がいます。いつだって彼らに会いたかったし、彼らと音楽したかった」
――ラ・モンテ・ヤングやジョン・ハッセルともしばしば一緒だったんですよね。
「ええ、ラ・モンテ・ヤングとはインドでたくさんの時間を共に過ごしたし、ジョン・ハッセルも一度だけ合流しました。ジョンと出会ったのは1968年、共にアーティスト・イン・レジデンスとしてニューヨーク州立大学に滞在していた頃です。私たちクリエイティヴな仲間として、音楽について語り合い、一緒に演奏して過ごしました。ジョンは、当時私がやっていたペルジアン・サージェリー・オーケストラというバンドでもモーグ・シンセサイザーとトランペットを演奏していたんです。本当にいい奴だったし、素晴らしい音楽家、思慮深い人でした。そう……今、彼がいなくて本当に寂しいです」
――1970年前後、多くのロック・ミュージシャンがあなたからの影響を公言していましたが、あなた自身は当時のロック・シーンについて、どう感じていましたか。
「『In C』(68年)や『A Rainbow In Curved Air』(69年)などのアルバムがヨーロッパに流通していたこともあり、当時私の音楽に関心を寄せる若者が多かったんです。まだソフト・マシーンの結成前、ロバート・ワイアットやデイヴィッド・アレンとも何回もセッションしました。私のキーボードの演奏法は確かに彼らに影響を与え、ソフト・マシーンやコングでもそのアイデアが生かされたと思います。私の音楽には、本質的にジャズやロックのフィーリングがあります。でも、そちら側に歩み寄ろうとしたことはありません。自分で探求、実践してきた方法で音楽を続けてきただけなんです」
――あなたは一般的にはスティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスなどと共に〈ミニマル・ミュージック〉の音楽家として紹介されることが多いですが、実際彼らとはどの程度接点がありましたか。
「ライヒは、私が64年に書いた“In C”に興味を持った最初の人たちの一人であり、サンフランシスコ・テープ・ミュージック・センターでの“In C”初演にも参加しました。その体験は彼の音楽の方向性を変えることになったはずです。グラスは、彼がヨーロッパから帰国した1966年頃にニューヨークで知り合い、意気投合しました。彼は週に1度、私のワークショップに参加していたんです。“In C”を一緒に演奏したことも何度かあったし。まあ、どんなレッテルであれ一度貼られてしまうと、音楽家はその型に嵌められ、自分の音楽の限界としてその型を使い続けてしまう。だから私はミニマル・ミュージックとかサイケデリック・ミュージックといった型に嵌まりたくなかったし、そう感じることが、どんな方向にでも向かえる完全な自由を得るための術だと思います」