ザ・キュアーの名盤『Wish』を30周年を機に堪能する
キュアーの90年代は、振り返られることが少ない。スタジオ盤の数も、80年代には7作を発表したのに対して、90年代は2作のみ。しかもそのうちのひとつ『Wild Mood Swings』(96年)は批評的にも商業的にも低迷。結果的にキュアーは失速しながら、21世紀を迎えることになったのだ。
とはいえ、その始まりは悪いものではなかった。むしろ快調だったと言っていい。もうひとつのアルバム――92年の『Wish』は、キャリア最高のチャート成績となる全英1位/全米2位をマーク。リリースに伴うワールド・ツアーも大成功を収め、その模様は2つのライヴ盤『Show』『Paris』(共に93年)として音源化されている。
シングル“Friday I’m In Love”もヒットするなどリリース当時の反響は上々だった『Wish』。にもかかわらず、見過ごされがちな理由は前作『Disintegration』(89年)にある。〈バンド黄金期〉と呼ばれるロバート・スミス(ヴォーカル)、ポール・トンプソン(ギター)、サイモン・ギャラップ(ベース)、ボリス・ウィリアムズ(ドラムス)、ロジャー・オドネル(キーボード)の5人編成で録音された『Disintegration』は、バンドの最高傑作と名高い。つまり、キャリアハイとされる前作の存在が、相対的に『Wish』の価値を下げていたのだ。また、マッドチェスターの盛り上がりやグランジの爆発を機に新世代バンドの台頭が目立っていた90年代序盤、80年代に栄華を極めたキュアーはややアウト・オブ・デイトな存在になっていた、という時代背景もあるかもしれない。
このたび、同作の30周年を記念した『Wish (30th Anniversary Edition)』がリリースされた。多数のデモやアウトテイクを収録した3枚組の〈Deluxe Edition〉には93年にメール・オーダーのみで販売されたカセットテープ『Lost Wishes』の4曲が収録されるなど、ファンには垂涎ものの一作だが、オリジナル盤の全12曲がリマスターされているのも嬉しいところ。もともとスミスは、オリジナル盤の音に不満を持っていたそうだ。そんな彼だが、今回リマスターされたサウンドについては、〈30年かかったけど、僕の願い(Wish)は叶ったよ〉と述べている。
キュアーにとって9作目のアルバムとなった『Wish』。レコーディングは、91~92年にかけて英オックスフォード北部の田園地帯にあるマナー・スタジオで行われた。84年の5作目『The Top』以降、バンドの制作に欠かせない人材となっていたデヴィッドM・アレンが共同プロデューサーとして参加。制作は、とても穏やかかつ和やかなムードで進められたそうで、収録曲もメンバー間の話し合いで決めたという。
サウンド面は前作と明らかに異なっている。物悲しい音色のシンセを多用し、閉塞感のあるゴシック世界を作り出していた『Disintegration』に対して、本作はギターが前面に出ていてロック色が強い。アグレッシヴでグルーヴィーな演奏は、当時の若手バンドたちを意識したことを匂わせつつ、それ以上にメンバーが活き活きとプレイしている様を伝えてくれる。前作以降にオドネルが脱退し、ローディーだったペリー・バモンテがギタリスト兼キーボーディストとして加入したという新たな編成ではあったが、苦楽を共にしてきた仲間ゆえの信頼感や相互理解がアンサンブルから感じられるのだ。
キャリア屈指の弾けたポップソング“Friday I’m In Love”の存在感が飛び抜けてはいるものの、楽曲も粒ぞろいだ。ギター・アルペジオとブレイクビーツが軽やかな“High”、シアトリカルかつダンサブルな“From The Edge Of The Deep Green Sea”、ケイティ・ウィルキンソンのヴィオラが美しい“To Wish Impossible Things”、聴き手を暗黒のサイケへ引きずり込む最終曲“End”。楽曲群の多彩さには、制作当初のスミスが2つのアルバムを同時進行で作ろうとしていたことも関係しているのではないか。歌ものの『Higher』、インストゥルメンタル作品の『Music For Dreams』と題されていたそれらは、やがて『Wish』というひとつの作品に融合されていった。
トンプソンのギターが炸裂するハード・ロック調の“Cut”は、30周年記念盤に収録のデモ・ヴァージョンを聴くと、当初はもっとスロウな楽曲だったとわかる。各曲がどう変化していったのかが明らかになることで、『Wish』がどこに力点の置かれた作品なのかもより理解しやすくなるだろう。
本作後に、トンプソンとウィリアムズはバンドを脱退。プロデューサーのアレンも、以降のスタジオ盤には関わっていない。つまり、『Wish』は〈黄金期〉のメンバー&制作陣による最後のアルバムである。各人の創造性やプレイヤビリティーがバランスよく発揮された本作は、それゆえにキュアー=ロバート・スミスの世界に心酔してきたファンからは少し薄味に見えていたのかもしれない。しかしながら、ロック・バンドの〈ラスト・ワルツ〉を捉えたアルバムとして、本作の放つ眩さはなかなか代えがたいものがある。
キュアーの89年作『Disintegration』(Fiction/Polydor)
ロバート・スミスが参加した近年の作品を紹介。
左から、チャーチズの2021年作『Screen Violence』(Goodbye)、ゴリラズの2020年作『Song Machine Season One』(Parlophone)