音楽の聴き方が多様化した今、タワーレコードがおすすめしているのは高音質なSACDでのリスニングです。この連載〈SACDで聴く名盤〉では、そのSACDの魅力や楽しみ方をお伝えしています。第17回に取り上げるのは、ロック、ひいてはポップミュージックを代表する不朽の名盤、ピンク・フロイドの『狂気(The Dark Side Of the Moon)』(73年)です。先日リリースされた豪華盤『狂気ー50周年記念SACDマルチ・ハイブリッド・エディション』について、あるいはピンク・フロイドというバンドや『狂気』という作品の普遍性と特異性について、筆家の佐藤良平さんが熱く綴ってくれました。  *Mikiki編集部

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PINK FLOYD 『狂気ー50周年記念SACDマルチ・ハイブリッド・エディション』 ソニー(2023)

 

普遍的で今なお現役な『狂気』の問題意識

今日まで録音されて残っているすべての音楽を大洋の水に例えるなら、自分の音楽体験は遠泳や潜水にも及ばず、たかだか波打際で足先を濡らした程度に過ぎない。極めて限定的なものだ。そうだと分かった上で敢えて書くが、アルバム『狂気』の特異性は突出している、と私は考えてきた。

今から50年前は世界中に『狂気』を買い求める人がいて記録的ベストセラーになる時代であったし、その後の50年間は『狂気』が風化しなかったため用済みにならなかった時代だ、と言うことができる。『狂気』が提示した問題意識は普遍的であり、50年かけても課題を解決できなかったどころか今なおバリバリの現役で、ますます重さを増して人々の上にのしかかっている。

最後から二番目の曲“狂人は心に”では、毎朝配達される新聞を読むのが恐ろしくて手に取ることができず、開かれないまま放置された新聞がドアの内側に積み重なっていくさまが歌われた。新聞を購読しない家庭は増えたが、読む者を狂気に誘うニュースはネットに溢れ返り、毎秒ごとに更新され続けている。歌詞にあるように、ニュースを受け取る者の頭が爆発しても不思議はない。

『狂気ー50周年記念SACDマルチ・ハイブリッド・エディション』収録曲“狂人は心に(Brain Damage)”

多数派を占める人々の考えが大きく変わらない限り社会は変革しないのだから、おそらく『狂気』は今後も聴き継がれる運命にある。それゆえ、リリース50周年を祝う気持ちがある一方で、素直に喜んでばかりはいられない、とも思う。将来〈ずいぶん昔に『狂気』というアルバムがあったんだよ、でもあれは人間が問題の多い文明生活を送っていた頃の産物で、我々は当時の人々のことを学ぶとき以外、もう必要としないんだ〉と言える時代が来るだろうか? 次の50年も『狂気』が生き延びるとしたら、その時代を生きる人々が幸福だとは必ずしも言えないかも知れない。

 

30周年盤の音作りへの自信

大上段に構えた物言いはこれぐらいにして、日本独自企画の完全生産限定盤である発売50周年記念SACDに話を進めよう。

音に着目すると、今回リリースされたSACDは2003年にEMI/キャピトル/東芝EMIが発売した『狂気』30周年記念盤SACDと何ら変わらない。比較試聴したが、両者の音質はほぼ同一だと判定できた。

今回ソニーが発売した50周年記念盤の国内盤SACDのディスク自体は、米アナログ・プロダクションズ(以下AP)が出したSACDと共通していると考えてよい。APは米モービル・フィディリティと並んで独自のリマスタリング手法を売り物とする再発専業の高音質レーベルであり、素材となるマスターテープから取り出した音に施す味付けで勝負してきた。ところが、今までAPが発売したフロイド関連SACD『』『死滅遊戯』『Animals (2018 Remix)』に限っては独自のマスタリングを行わず、フロイド側が供給したマスターそのままの音質でリリースしている。それら三作の印刷物を見てもAP側のマスタリングエンジニアやマスタリングスタジオのクレジットはない。この点は今回の『狂気』も同様だ。

その理由だが、しばらく前からフロイド側のクオリティコントロールが非常に厳密になり、発売元によって作品の音質が変わる事態を好まないためだと考えられる。APが制作した『死滅遊戯』SACDを基にして日本のソニーが国内盤SACDを出そうとした時、国内盤限定で盤面に緑色の特殊インキを印刷することで音質向上を図る〈音匠(おんしょう)レーベルコート仕様〉を採用すると発表した。にもかかわらず、さんざん発売を延期したあげく音匠仕様でなく本国盤と同じ通常印刷のSACDでリリースしたことがある。これは日本サイドが独自に音質を改善しようとしても、音質が変わるのを恐れたロジャー・ウォーターズ側が音匠仕様を認めなかった結果であろう。それほどまでに融通が利かないのだ。

そういった経緯で、ディスクの中身の音に関して今回の『狂気』50周年盤は30周年盤と変わりがないから、音しか興味がないリスナーはわざわざ買い増ししなくても構わない。音に関して完璧主義を貫くフロイドが30周年盤と同じマスターで50周年盤を出したのは、20年を経た今でも30周年盤の音作りに自信があり、ことさらミックスをやり直す必要はないと判断した、と捉えるのが妥当だ。もちろん、新規にミックスをやり直せばデヴィッド・ギルモアとロジャー・ウォーターズの確執が再燃する火種になりかねないので、ここは一つ穏便に……という配慮も感じないではない。また、緩やかながらオリジナルマスターの劣化が進んでいる現実もあり、幾つかのファクターから総合的に判断して2003年盤の音を踏襲したと評者は見ている。

結局APはフロイド関連音源に関して独自マスタリングによる自己主張を行わず、パッケージのデザイン/制作および商品の流通に専念している。『狂気』50周年盤の国内盤SACDでは、APに代わってソニーが独自のパッケージを制作する形となった。