名だたるアーティストを夢中にさせたシド・バレット
その謎に満ちた人生が解き明かされる!
シド・バレットはピンク・フロイドの創立メンバーで、歌手、ソングライター、ギタリストとして初期のバンドを牽引した。英国におけるサイケデリック・ロックの先駆者であり、デヴィッド・ボウイをはじめ、その影響を公言するアーティストは多い。ピンク・フロイドのデビュー・アルバムとソロ・アルバム2枚、彼の遺した作品はその後の世代にも聞かれ続け、ロック界の究極のカルト・ヒーローともなった。
一方で、彼は最初の〈アシッド(LSD)の犠牲者〉の1人でもあり、その生き方は人びとへの教訓ともなった。LSDは創作への刺激をもたらしたが、その過剰な摂取は精神に問題を生じさせた。シドはバンドの一員として機能しなくなり、ピンク・フロイドを脱退。70年にソロ・アルバム2枚『帽子が笑う…不気味に(The Madcap Laughs)』『その名はバレット(Barrett)』を作るが、やがて音楽をやめ、自宅に籠って絵を描いて過ごす世捨て人のような暮らしで、以降の40年間を生きた。そして、06年に膵臓がんと糖尿病の合併症のため60歳で亡くなったのである。
このシド・バレット物語の大筋はよく知られるが、映画「シド・バレット 独りぼっちの狂気」(原題:Have You Got It Yet? The Story Of Syd Barrett And Pink Floyd)のような形で詳しく語られることはなかった。このドキュメンタリーは、実際に若い頃からシドをよく知っていた人びとの証言によって、ピンク・フロイドを結成し、LSDで精神を病み、音楽界から姿を消した19歳から22歳までの有名な3年間を残りの人生の文脈につないでいる。
本作には2人の共同監督が名を連ねる。ひとりは、シドの幼なじみであるストーム・トーガソンで、ピンク・フロイドの最も象徴的なアルバム・ジャケットをはじめ、ロックの名盤の多くをデザインした有名なヒプノシス・スタジオの共同設立者である。そのストームが13年に亡くなり、ロディ・ボグワナ監督が引き継いだ。完成まで長い年月がかかった作品には、フロイドのデヴィッド・ギルモア、ニック・メイソン、そしてロジャー・ウォーターズをはじめ、マネージャーのピーター・ジェナー、元恋人たち、故人に影響を受けた人たち(ザ・フーのピート・タウンゼント、ブラーのグレアム・コクソン他)、そして幼少期にさかのぼる友人たちが集められた。
彼らの多くは一緒に育ったり、共に生活をしたり、シドと本名のロジャーというバレットの両方の顔を知る人たちで、そんな彼らの思い出を聞き出すのは、仲間のひとりだったストーム自身だ。被取材者はカメラの向こうの聴衆ではなく、彼と話しており、その話のなかに頻繁に彼も登場する。その会話に感じられる親密さがロック・スターやカルト・ヒーローという形容に隠れた真の姿を映し出す。
彼らの回想によると、46年にケンブリッジに生まれたシドことロジャー・キース・バレットは本当に才能に恵まれていた。「生まれながらの画家」で、音楽にも才能を発揮し、女の子にもて、友人が周りに集まり、10代の頃から「僕らの小さな天空のスター」だったという。ギルモアによると「ある意味、シドにとって人生はあまりにも簡単だった」そう。「彼は良い匂いがした(笑)」という男友だちの言葉にもそのカリスマ的魅力が窺われる。
62年、16歳でシドはケンブリッジのアートスクールに入学。64年からはロンドンのアートスクールに移り、ウォーターズ、メイスン、リック・ライトと出会い、ピンク・フロイドを結成した。ビートルズとLSDに刺激を受けたバンドは、ポップ、ハード・ロック、ジャズの即興演奏をかけ合わせた独自のサウンドをすぐに確立した。そのサウンドはシドの美学を反映しており、コンサートにサイケデリックなライト・ショウを導入したのも彼の考えだった。彼らはシドの書いた“アーノルド・レーン”や“シー・エミリー・プレイ”でヒットを放ち、67年夏にはデビュー・アルバム『夜明けの口笛吹き(The Piper At The Gates Of Dawn)』を発表した。シド在籍時の唯一のアルバムで、英国でトップ10入りを果たした。その影響力について「シドは60年代のあの瞬間のすべてを決定づけた」とタウンゼントは語る。