鳥のように自由
ベースをはじめとするマルチ器楽奏者/シンガー/ソングライターのミシェル・ンデゲオチェロ、本名ミシェル・リン・ジョンソンは68年生まれ。出身はまだ東西が分かれていたドイツの西ベルリンで、軍人でありサックス奏者でもあった父親の駐留に伴って彼女も数年はドイツで過ごしている。70年代に入って家族と共にヴァージニア州に移り住んで以降は、音楽に興味を持つようになっていく。10代になるとワシントンDCのクラブで演奏活動を開始し、同地のゴーゴー・バンドで腕を磨いたという。やがてハワード大学へ進んで音楽を学んだ彼女はNYへ移住。ベースやドラムマシーンを用いてライヴを行うなか、その頃にはすでにスワヒリ語で〈鳥のように自由〉を意味する姓を名乗り、彼女はミシェル・ンデゲオチェロになっていた。
92年にはマドンナらがワーナー傘下に設立したレーベル=マーヴェリックの第1弾アーティストとして契約し、翌93年に華々しくメジャー・デビューを飾ることになるわけだが、それに先駆けて彼女が業界内で奮闘していた痕跡はいくつかの作品に残されている。まず、91年にGRPからデビューしたガールズR&Bグループ、ヴォイスボクシングのデビュー作『Voyceboxing』にて3曲でベースを弾き、そのうちの“Talk To Me”ではソングライターとしても採用された(同曲はミシェル本人もデビュー作にて“Outside Your Door”としてセルフ・カヴァーしている)。翌92年、キャロン・ウィーラーのアルバム『Beach Of The War Goddess』でベースを弾いたミシェルは、キャロンを経由して会った久保田利伸のアルバム『Neptune』でも1曲の演奏に参加している。さらに、この時期の彼女はリヴィング・カラーの新ベーシスト募集オーディションも受けていたそうだが(ベーシストのマズ・スキリングスが92年に脱退している)、幸か不幸か合格とはならなかったことで、無事にソロ契約を結ぶチャンスを掴んだというわけだ。
初めてのアルバム『Plantation Lullabies』は93年10月のリリース。登場時から彼女はオープンなバイセクシャルで、そうしたアイデンティティーについても当時は無造作な宣伝文句のひとつになっていたように記憶しているが、何よりも受け手を圧倒したのは彼女の音楽性そのものだった。プリンス、マイルス・デイヴィス、ATCQという好みの反映はもちろん、スライ・ストーン、Pファンク、マーカス・ミラーからの影響は抑制の効いたクールなファンク感覚をミシェルに授けている。ヴィジュアル面のブランディングも行き届いたファッショナブルでスタイリッシュな雰囲気も90年代初頭のムードにマッチし、アルバムは賞賛をもって受け止められた。大半の楽曲を制作したデヴィッド・ギャムソン(スクリッティ・ポリッティ)はこの時期ワーナーのスタッフとして働くなか、ショウケースでミシェルと出会って魅了され、彼女を通じて70年代のソウルを再現しようとしたそうだ。
ともかく、デビューした〈有望新人〉はそこから多彩な大物との手合わせを経験していくことになる。94年にはレッド・ホット・オーガニゼーションのチャリティー盤『Stolen Moments: Red Hot+Cool』にハービー・ハンコックとの共演曲“Nocturnal Sunshine”で参加。また、マドンナは『Bedtime Stories』収録の“I’d Rather Be Your Lover”でベース演奏とラップに彼女を招いている(告訴問題の起こった2パックのパートを削除して急遽ラップを頼まれたエピソードも有名だろう)。他にもギャング・スターのグールーによるジャズ・ラップ企画〈Jazzmatazz〉や、マーカス・ミラー、ボニー・ジェイムズ、さらにはローリング・ストーンズまで、90年代の彼女はベーシスト/ヴォーカリストとして幅広いフィールドで引く手数多な状態となった。そんななかで唯一のコマーシャルな成功となったのは、ジョン・メレンキャンプとのデュエット“Wild Night”(ヴァン・モリソンのカヴァー)であり、これは全米3位を記録。一方、ギャムソンはチャカ・カーンのアルバム『Dare You To Love Me』にミシェルを迎え、(アルバム自体はお蔵入りするものの)そこからは共演したアップ・チューン“Never Miss The Water”(96年)がクラブ・ヒットを記録している。