枠を気にする必要のない旅
96年には引き続きギャムソンと組んだ布陣でセカンド・アルバム『Peace Beyond Passion』を完成。これは孤高の表現と親しみやすさが絶妙なバランスで結びついた傑作で、R&Bチャート15位まで上昇、翌年のグラミーで最優秀R&B部門にノミネートもされるなど前作以上の評価を獲得した。ただ、同時代のR&Bとはテイストが異なり、かといってロックともジャズとも括り難い独創的な音楽性を売りあぐねたのか、次作へ向かうにあたってレーベル側からコマーシャルな作品作りを要求されたギャムソンはワーナーを退社し、プロデュースからも外されることになってしまう(皮肉にもその2作目がもっとも商業的に成功したミシェル作品となった)。
そもそもミシェルはサード・アルバムにジャズ・ヴォーカル作品を望んでいたという話もあるが、レーベルの説得もあって方針転換し、結果的に届いた3作目『Bitter』(99年)はクレイグ・ストリートのプロデューサーでヴォーカルに重きを置いた内容となった。21世紀に入ってからはR&B/ヒップホップの勢いが支配的になった状況も踏まえ、レーベルの要請を受ける形で4作目の『Cookie: The Anthropological Mixtape』(2002年)は本人なりのメインストリーム感に溢れたコンシャスでハイパーなポップ作品に仕上げられている(同作は翌年のグラミーにノミネートされた)。恐らく彼女がメインストリームへの目配せを試みたのはここが最後だったのだろうが、それにしても〈9.11〉を想起させるリリックの問題などがあって延期を余儀なくされるなど、ミシェルにとってメジャーの市場は居心地のいい場所ではなくなっていったに違いない。翌2003年の『Comfort Woman』をもってマーヴェリックとの10年の契約は満了となった。
で、そもそも存在しない枠を気にする必要のなくなった彼女の旅が、それ以降はより自由なものとなったのは言うまでもない。サンタナやベースメント・ジャックス、イェルバ・ブエナ、ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマ、ソウライヴ、テレンス・ブランチャード、ザップ・ママ……と畑を問わずにあちこちのレコーディングに顔を出しつつ、ドリー・パートンのトリビュート盤『Just Because I’m A Woman: Songs Of Dolly Parton』(2003年)に参加したかと思えば、レディオヘッドのカヴァー企画『Exit Music: Songs With Radio Heads』(2006年)にクリス・デイヴと参加したり。2005年にはスピリチュアルなジャズ・アルバム『The Spirit Music Jamia: Dance Of The Infidel』を発表し、2007年にはセルフ・プロデュースでよりミクスチャー度合いを深めた『The World Has Made Me The Man Of My Dreams』をリリース。アフロもレゲエも呑み込んだ同作にはディアントニ・パークスやパット・メセニーも招いており、彼女のミュージシャンシップの高まりとインディペンデント精神の強さは結果的に(本人がどう捉えているのかはさておき)ジャズ(周辺)ミュージシャンとの親交をより濃密に深めていくことになった。そして、みずからは手の合うバンド・メンバーたちとマイペースにアルバムを重ねつつ、特に2010年代以降は、先述したジェイソン・モラン『All Rise: A Joyful Elegy For Fats Waller』やマーカス・ストリクランドの『Nihil Novi』のように、プロデューサーという立場からも多くの後進とコラボレート。一方では独立系アーティストのキャリアをサポートする〈インディペンデント・ミュージック・アワード〉の審査員もたびたび務めていたりする。そうしたポジションやペースによって本人の作品がかつてのようにセンセーショナルなものでなくなっていったのも確かだが、一定の水準を必ず越えてくる安定感と美意識の通底ぶりは言うまでもないし、実際のところ、ここに至るまでのさまざまな繋がりこそが今回のブルーノート・デビューへと彼女を導いたのもまた確かだろう。