
私が住む新潟県は、田中さんが日本一のラーメン処とおっしゃる通り、ラーメン屋さんが多いです。
「ラーメン狂走曲」では新潟のタウン情報誌「月刊新潟Komachi」にて連載されていた〈新潟拉麺大学〉も全話収録されています。
新潟生まれ新潟育ちの私でも知っているお店はほんの数軒でした。
Googleマップで場所をチェックしながら読んでいると、コロナの影響や店主の高齢化で閉店してしまったお店もあり、残念。それと同時に懐かしい最初のラーメンの味を思い出していました。

宇野家の思い出の味は、新潟市中央区南笹口にあった〈中華飯店 広香〉さんです。
私は4人兄弟の末っ子で、いつから宇野家が広香に通い始めたかは定かではありませんが、物心がついた頃には広香の味が染み付いていました。
縦長の店内にカウンター、テーブル、お座敷があり、お座敷の近くに天井まで届く大きな本棚があった記憶です。「釣りバカ日誌」「ONE PIECE」「美味しんぼ」などが置いてあって、姉が夢中で読んでいるのをまだ漫画の読み方が分からなかった私は時々一緒に眺めたりしていました。
中華そばは、いたってシンプル。細麺のあっさり醤油。
餃子はもっちりしていた気がします。
成長期の兄はチャーハンを追加してモリモリ食べていました。
私はキッズ用のお椀から、丼で一人で食べれるようになった時、大人になった気分で得意げになっていたのを覚えています。
家族の誕生日や、小学校のミニバスの試合の帰り、何もない休日もラーメンを食べる時は必ずと言っていいほど広香でした。
ご夫婦で経営されていて、仲が良く、いつも笑顔で迎えてくださりました。

私がRYUTistを始めたことや、兄弟の上京や学業で忙しくなった時期が重なり、あるときから広香に足を運ぶことがパタリとなくなってしまいました。
ほんの1年くらいの間だったと思います。その後、RYUTistの映像スタッフのコバヤシノブヨシさんから何気なく見せてもらったFacebookの投稿の中で広香が閉店していたことを知ったのでした。もう10年前の話です。
衝撃だったけど、当時まだ中学生。それほど事の重大さに気がつけなかったのかもしれません。今になってこんなに切ない気持ちになるとは思いもしませんでした。
様々なお店に足を運ぶようになった今だからこそ、広香がいいお店だったんだなと分かって、恋しくなるのです。
食後に優しい笑顔の奥さんがオレンジジュースを出してくださり、会計時にはペコちゃんキャンディーをいただくまでがお決まりでした。大人たちが飲んでいたのはアイスコーヒーで、気になって一口貰っていたな。初めてのコーヒーは苦かったです。
あれは多分全員にサービスしていたドリンクでした。中華そばはたしかワンコイン。今考えるとお得すぎです。
また食べたいなー、広香の味。

「ラーメン狂走曲」を読んで気になったのは〈新潟あっさりラーメン〉の〈元祖支那そば 信吉屋〉さん。
今回の撮影で初めて伺いました。
私の活動拠点・古町からも近い本町にある老舗のラーメン店なのですが、いつもいつやっているのかわからないくらいすぐに終わってしまう人気店です。撮影のこの日も開店の11時から1時間足らずで完売。
支那そば、美味しかった。息が白くなるほど寒い日でしたが、並んで待ってよかったと思いました。気さくにお客さんとコミュニケーションをとりながらテキパキと動く奥さんとラーメン作りに集中されるご主人。
お2人とも、信吉屋でのお仕事を心から楽しんでいるように見えました。毎日の行列の理由が分かりました。
この〈元祖支那そば 信吉屋〉さんの紹介ページで田中さんは、新潟あっさりラーメンを出しているお店は比べてみるとそれぞれ麺もスープもかなり違うらしく〈うーん、「新潟あっさりラーメン」とはなんぞや……。〉と呟いていました。
その後、信吉屋のご夫婦のエピソードがあり、〈この味と、このお二人の笑顔があっての信吉屋。一度や二度来たくらいで、この素晴らしさがわかる訳でもなく、ましてやジャンル分けすることなど意味がない。そんな大事なことに気づかされた一杯。〉
と締めているのに大きくうなずきました。
私の父はこの10数年、自分好みのラーメンに辿り着けていないみたいなのです。
自分で作ったり、いろんなお店に行ったりしながら、いまだあの広香の味を探し求め続けているのかもしれません。父にとっては誰がなんと言おうと広香のラーメンがずっと一番なのだと思います。それはきっと色褪せない家族との思い出と、いつもあたたかく迎えてくださった広香のご夫婦あってのことではないでしょうか。そうであったらいいなという子の願いも込めて。
いつかまた出会えるといいね、お父さん。