高橋幸宏が死去したと、本日1月15日に複数のメディアが報じている。70歳だった。その早すぎる死に、そしてこの世を去った音楽家の存在感の大きさに、言葉を失う。
高橋幸宏の死去は、1月14日に判明。亡くなった詳しい原因や実際の日時は伝えられていないが、静養を行っていた長野・軽井沢で年明けに肺炎を患っていたという。
高橋幸宏(以下、ユキヒロと書かせてもらう)は1952年生まれ、東京出身の音楽家だ。高校生だった頃からスタジオミュージシャンやサポートミュージシャンとしてドラムを叩いており、武蔵野美術大学に在学中、サディスティック・ミカ・バンドに誘われてメンバーになった。
ミカ・バンドは、デビューアルバム『サディスティック・ミカ・バンド』(73年)、セカンドアルバム『黒船』(74年)、サードアルバム『HOT! MENU』(75年)などを残して解散。特にクリス・トーマスがプロデュースした『黒船』は日本のロックの名盤と名高く、イギリスでロキシー・ミュージックの公演のオープニングアクトを務めるなど海外でも高い評価を受けたバンドだった。
ミカ・バンドの解散後はサディスティックスとして短期間活動し、78年にアルバム『サラヴァ!』でソロデビューを果たす(同作は40年後の2018年、ボーカルを新録した『Saravah Saravah!』として再びリリースされた)。そして同年、細野晴臣、坂本龍一とともにイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)を結成する。
YMOでの活動は周知のとおりだが、唯一無二のドラマーとしてはもちろん、ボーカリストとしても活躍した。また、YMOを語るうえで外せない印象的な人民服など、ステージ衣装のデザインやスタイリングも手がけていたことで知られている。作曲家としても、YMOでユキヒロがボーカルをとるきっかけになった“中国女”(78年)、ユキヒロの鼻歌から作曲されたという逸話が残されている代表曲“RYDEEN”(79年)、坂本不在のなかで細野と作り上げた“CUE”(80年)、坂本との共作曲“以心電信”(83年)など、数々の名曲を残した。しかしYMOは、83年に〈散開〉する。
ユキヒロは、YMOでの活動と並行して自身のプロジェクトも行っており、81年に鈴木慶一(ムーンライダーズ)とTHE BEATNIKSを結成する一方、『音楽殺人』(80年)、『NEUROMANTIC(ロマン神経症)』(81年)、『WHAT, ME WORRY?』(82年)、『薔薇色の明日』(83年)、『WILD & MOODY』(84年)と、ニューウェーブ/テクノポップ的な傑作ソロアルバムの数々をアルファレコードおよび細野のYENレーベルから(『音楽殺人』のみキングのSEVEN SEASから)リリースしている。また、YMOの散開後には、『ONCE A FOOL,...』(85年)と『...ONLY WHEN I LAUGH』(86年)を鈴木慶一と設立したT・E・N・Tレーベルから発表した。
その後、89年には、ミカ・バンドが一時的に復活。桐島かれんをボーカリストにして、アルバム『天晴』をリリースする。さらに93年、YMOがYMOとして〈再生〉し、アルバム『TECHNODON』の発表や東京ドーム公演の開催などの活動を短期的に行った。
2000年代に入ると、2002年に細野とのエレクトロニカユニット、SKETCH SHOWを結成。2002年にファーストアルバム『audio sponge』、2003年にセカンドアルバム『tronika』とサードアルバム『LOOPHOLE』をリリースした。さらに2004年には、坂本を加えたHUMAN AUDIO SPONGE(HAS。のちにHASYMOにも発展)としての活動を始め、これらのユニットでの活動を踏まえたエレクトロニカ作品『BLUE MOON BLUE』(2006年)を発表した。加えて、木村カエラをボーカリストに迎えたサディスティック・ミカ・バンドも再々結成を果たし、アルバム『NARKISSOS』をリリースした。