40年前の1985年にヒットチャートを席巻していた安全地帯。大ヒットアルバム『安全地帯IV』がリリースされたのは同年11月24日だった。代表曲の一つ“悲しみにさよなら”などを収録した本作を中心に、安全地帯が大活躍した1985年をエディター/ライター久保田泰平に振り返ってもらった。 *Mikiki編集部
玉置浩二にも伝播した井上陽水イズム
玉置浩二の色っぽいボーカルと妖しいルックス、もはやルーツが見えにくいほど煮詰められた無国籍なサウンド、心揺さぶるメロディー、そして大人の男女の情景を描いた歌詞。たぶん最初に飛びついたのは、大人の女性たちだったんだろうけど、ほどなくしてその魅力は背伸びしがちなティーンエイジャー(男女問わず)にも訴求していたと思う。
安全地帯のデビューは1982年。その音楽が広く届くようになったのはデビュー2年目となる1984年だ。前年秋にリリースされたシングル“ワインレッドの心”がサントリー〈赤玉パンチ〉のCMソングになったことがきっかけとなり、初のヒットに結びついた。当時のお酒(主に洋酒)のCMといえば、デヴィッド・ボウイ、ウルトラヴォックス、デュラン・デュラン、ホルガー・シューカイなど洋楽が多かったが、そこにきて安全地帯という、まだそんなに名前が知られていなかった日本のバンドの楽曲をCMに起用。赤玉パンチといえば、リーズナブルで、ワインを飲み慣れていない人にも甘くて飲みやすい製品としてすでに知られていて、ある世代にとっては〈初めて飲んだお酒〉という人も結構いるかと思う。そう考えると、大人の飲み物でありながらハードルが低い、間口が広いという意味で、安全地帯の音楽性、“ワインレッドの心”という楽曲との見事なタイアップだったと言える。
それはさておき、安全地帯がブレイクした1984年は、チャートの顔ぶれも少し前とは明らかに様変わりしてきた。アイドルポップスは相変わらす元気だったが、チェッカーズがブレイクしたのもこの年だったし、明らかにサウンドの主流がロック的、ビートのアタックが強めのものがヒットする傾向にあった。松山千春や長渕剛、チャゲ&飛鳥といったフォーク〜ニューミュージック系の人たちは試行錯誤を強いられることになるが、そんななかでも前時代からうまく波を乗り越え、心地よくクルーズしていたのが井上陽水だった。アルバムはもちろんコンスタントに売れていたが、シングルでも“いっそ セレナーデ”をトップ10入りさせたほか、安全地帯“ワインレッドの心”“恋の予感”(作詞)、中森明菜“飾りじゃないのよ涙は”(作詞・作曲)を提供し大ヒット、それらをセルフカバーしたアルバム『9.5カラット』も大ヒットした。芯の強いメロディーと、時代を読んだアレンジ、またそれを実現できるスタッフとの交流、そういったものが陽水のたくましさの元なのだろうが、それはデビュー前から陽水のライブサポートをし、レコーディングにも参加、言わば師弟とも言える関係にある玉置浩二にもそのイズムが伝播していたんじゃないかと思える。
