PORTISHEAD
ジェフ・バーロウ、エイドリアン・アトリー、そしてベス・ギボンズ――容易に姿を見せることのないブリストルの伝説は現在どこにいる? 『Lives Outgrown』をきっかけにその軌跡を追いかけてみよう!

 まさかここにきて彼女の歌がこんな形で聴けるとは思ってもいなかった人は多いのではないか。ポーティスヘッドで知られたベス・ギボンズが、初のソロ名義アルバム『Lives Outgrown』をリリースしたのだ。資料によると同作は完成までに10年を要したそうだが、かつてラスティン・マンとのタッグで発表した『Out Of Season』から数えれば22年ぶり、ポーティスヘッドの現時点での最新作『Third』から数えても16年ぶりのアルバムになるのだから、メンバーたちの時間感覚は昨今のコマーシャルな音楽市場の原理からもまるで外れている。ただ、芸術と芸能の間を揺れ続けるポップ音楽の世界においては、そうした孤高の存在がいてこそバランスが保たれるのであり、なおかつ彼らはマイペースであることが受け手にも許され、そうした表現を期待され続けているアーティストなのだ。

 

予想外の成功と重圧

 そんなポーティスヘッドは、91年2月にジェフ・バーロウとベス・ギボンズが出会ったことで始まっている。ヒップホップに傾倒していたジェフはレコーディング・アシスタントとして働きながら自身のトラックを作り、そこで歌うヴォーカリストを探していたという。対するベスはパブなどで歌っていたそうで、何かがフィットした2人はすぐにユニットを結成、そのまま最初の楽曲“It Could Be Sweet”を録音している。当時のジェフはネナ・チェリー『Homebrew』(92年)のためにネナの夫キャメロン・マクヴェイ(マッシヴ・アタックの初作やオール・セインツとの仕事で知られる)と作業していて、その合間にキッチンで自身の曲を作っていた。その後、レコーディングしていたスタジオでエイドリアン・アトリーに会い、彼も加えてアルバム制作を進めていくことになった。

 彼らはレコードからのサンプリングもしつつ、オリジナルの演奏を録音してそれもネタとして使用しており、シンセやギターの演奏に習熟したエイドリアンの技量はジェフのアイデアを大いに喚起するものだったはずだ。そうして完成した最初のアルバム『Dummy』は94年8月にリリース。当時すでにマッシヴ・アタックやネリー・フーパーは活躍していたが、彼らも含めて大まかに〈ブリストル・サウンド〉と括られていたものが〈トリップ・ホップ〉という形容と共に立体化したのはポーティスヘッドの登場後だろう。“Numb”や“Sour Times”はシングル・ヒットも記録し、アルバムは最終的に全英2位まで上昇している。

 そうした数字上の成功よりも『Dummy』の価値をより広めたのはメディアや批評家の大絶賛だった。なかでもゴシック・ヒップホップとも形容されたジェフのトラックメイクのセンスと、不穏な冷たさと儚さを纏ったベスの繊細なヴォーカルは賞賛の的となる。彼らは95年にマーキュリー音楽賞に輝き、ブリット・アワードでも受賞を果たすなど、商業的に批評的にも完璧と言っていいほどの評価をデビュー作から獲得したのだった。

 ただ、本人たちやレーベルの予想も大きく超えるほどの歓迎ぶりは今後への大きなプレッシャーとなり、ポーティスヘッドは制作を一時中断。なかでももともと極度の人見知りだったというベスはプロモーション活動で不調をきたし、すべてのインタヴューを断ることを宣言している。彼女を守るべく取材を受けるのはジェフの専任となったが、彼にとっても成功からくる重圧は大きかったはずだ。

PORTISHEAD 『Roseland NYC Live (25th Anniversary Edition)』 Island(2024)

 しばらく表舞台から遠ざかっていた彼らが帰ってきたのは97年。届けられたセカンド・アルバム『Portishead』は生楽器を多用したプロダクションで前作とは違う質感を備え、雰囲気はさらに暗くなったが、そうした変化も含めてまた高く評価されている。同作リリース後の彼らはNYCのローズランド・ボールルームでオーケストラを従えた一回限りのパフォーマンスを敢行。これは、先だって25周年記念エディションが登場したライヴ盤『Roseland NYC Live』(98年)はそのライヴの模様を収めたものだ。ただ、一方でジェフは音楽への興味を徐々に失っていったという。ツアーに伴う疲弊や離婚なども重なって98年には活動を休止し、彼はオーストラリアへの移住を選んだ。そうする間にも彼らのフォーマットを踏襲したフォロワーたちは数多く現れていったが、ポーティスヘッドの表現に替わるものはなかった。