ダメになっていく世界のなかでロックンロールにできることは? 新作『†』に投影された志磨遼平の決意――いま僕が歌うべきは希望、そして〈属さず一人でいよう〉とする反抗
昨年9月に出版された志磨遼平の自叙伝「ぼくだけはブルー」は、ドレスコーズの音楽アルバムと同列に語られるべき作品だ。それは孤高のロックスターが、生い立ちから毛皮のマリーズでのブレイク、ドレスコーズ結成を経てソロ・プロジェクトとして再生するまでをすべて語った、全ロック・ファン必読の書。だが、しかし。
「自分の生い立ちを振り返ることで、僕は自分の過去に飽きたんです。過去を恥じているという意味ではなくて、すべてに満足したうえで〈僕はまだ何も成し遂げていない〉と思った。それが自叙伝を書いて良かったことで、そして出来たのがこのアルバムです。〈新しい人生を始めよう〉ということですね」。
ドレスコーズの10枚目のアルバム『†』は、読み方を指定しないタイトルの下、衝動的なロックンロールに回帰している。志磨はバンド・メンバーに〈これからデビューするバンドのような演奏を〉と要求した。粗削りで率直な音と言葉の発信源は、世界を覆うニヒリズムとポピュリズムに対する〈反逆〉だと志磨は言う。
「いまの世界の情勢に対して、非常に悲観的にならざるをえないということがまずあって。例えば『ジャズ』(2019年)というアルバムも、人類が衰退していくという悲観的観測に基づいて作ったもので、そもそも僕らは思春期のときから世紀末、ディストピア、セカイ系とか、そういうカルチャーで育ってきたので、すんなりとこの衰退を受け入れてしまいそうになるんですけども、以前に社会学者の内田樹さんに教えていただいた〈狼少年のパラドクス〉を思い出したんです。〈狼が来たぞ〉と吹聴し続けることによって、最初は警告だったはずが、いつか本当に来てほしいと望むようになる。誰が望んだのかはさておき、まさに世界が本当にダメになっていくなかで、いま僕は希望を歌わなきゃいけない。〈この世界は必ず良くなっていく〉と」。
志磨の姿勢は1曲目“ヴィシャス”を筆頭に、ドラマ「奪われた僕たち」主題歌の“キラー・タンゴ”、エルヴィス、ボラン、ボウイなどロックスターの名を織り込んだ“ロックンロール・ベイビーナウ”など一貫している。そこには、志磨のロックンロール観が鮮やかに映し出されている。
「“ヴィシャス”は、いまこの瞬間にも国家主導の殺戮や略奪行為があって、それを知りながら自分は何もできずにいる、その醜さを歌った曲。“リンチ”は、デヴィッド・リンチの映画の悪夢のようなイメージと現実を重ねています。映画は〈カット〉がかかれば現実に戻れますけど、カットがかからない悪夢がいつまでも続いているというイメージです。“ロックンロール・ベイビーナウ”は、まさに僕の好きなロックンロールの姿勢を歌っていますね。エルヴィスも、エディ・コクランも、もちろんビートルズも、ロックンロールは反抗的でポジティヴなもの。自分がいまやるべきことは、それだと思っています」。
荒々しいだけじゃない。シングルになった“ハッピー・トゥゲザー”をはじめ、“やくたたず”“ホエン・ホエア・ホワット”など、至高のポップネスとメロディー・センスが堪能できるソフトな曲もたくさんあり、毛皮のマリーズ時代からのファンも歓喜するだろう全10曲。ラスト曲“ミスフィッツ”を聴き終えたときにふつふつと湧き上がった、希望、怒り、寂しさ、追憶、笑いなどがゴチャマゼになった熱い感情。これが志磨遼平のめざすロックンロールかもしれないと、ふと思う。
「“ミスフィッツ”は〈不適合〉の意味で、僕の独白でもあるし、僕の音楽に共感してくれている同じ性分の人たちに向けて、手を差し伸べるのではなく〈そのまま僕らは一人でいよう〉と歌っています。大きな勢力と対抗勢力があって、そのどちらにも属せない人が絶対いる。そういう人のためにロックンロールはある。それをはっきりと表明することが、このアルバムでの僕の望みです」。
左から、ドレスコーズの2023年作『式日散花』、2019年作『ジャズ』(共にEVIL LINE)、志磨遼平の著書「ぼくだけはブルー」(シンコーミュージック)