Page 2 / 6 1ページ目から読む

J-POPの進化と発展の貢献者

能地「私自身は当初そこまで考えていなかったんですけど、この本は結果的に佐橋ヒストリーであるのと同時に、80年代のJ-POP前夜から日本のポップスシーンがどんどん成熟していく歴史も伝えているんですよね。バブルがあって、いいスタジオができたり、優れた才能が登場したり。

もちろんご本人の才能もあるんですけど、時代の追い風にすごくうまい具合に乗ったんですよね。たとえばCD時代になってから初のミリオンセールスを記録した小田(和正)さんがいたり(“ラブ・ストーリーは突然に”)、渡辺美里さんが社会現象になったり。その現場に佐橋さんがいて、いろんなことを間近で見ていらっしゃったJ-POPヒストリーの目撃者なんです。ご本人はそんなことを考えながらやっていないですよね」

佐橋「僕がギターを弾きにいったりスタジオでプロデュースしたりしている時は、ヒット曲やスタンダードな名曲になるかってわからないですからね。ただいいものを作りたい、いい演奏をしたいと思ってやっているだけだから。

もう一つ言うと、この本もこのCDも、僕が主役というよりまずは曲が主役ですよね。たまたまみなさんの印象に残った作品に僕が参加していたという。なので、珍しい本だと思うんですよ」

能地「ほかの人では作れない本ですね」

佐橋「僕がデビューした1983年はデジタル機器が音楽業界のなかで一般化していった頃ですが、まだアナログテープに録音していた時代でした。ちょうどバンドが解散してスタジオミュージシャンを始めた頃に〈CDっていうのがあるらしいよ〉と聞き、デジタルのレコーダーが出てきて、まだ24チャンネルしか録音できなかったところに倍の48チャンネルレコーダーが登場し、今度はコンピューターに記録する時代になり……。

要するに、僕がミュージシャンを始めてからメディアもすごく変遷があってね。音楽に携わる方々がそれに翻弄されつつ、なんとか上手に使っていこうとしたのがこの40年のなかにある。それを現場で目の当たりにしてきたって意味でも、そこはとっても大きなポイントだと思うんです」

能地「だから、『プロジェクトX』みたいな本なんですよ。プロデューサーの方は本を出すと〈あれは俺がやったんだ〉なんてよく言うんですけど、実際の現場ではそのプロデューサーが家に帰ったあとも仕事をしていた人がいたわけですよね。たとえば〈佐橋が残ってやるなら、俺も一緒にやるよ〉とマニピュレーターの方が朝まで一緒に作業してくれたり」

佐橋「あった、あった。シンセサイザーのマニピュレーターやプログラマーというのは、松武秀樹さんが最初にそういう職種を作った人になるのかな。(藤井)フミヤの“TRUE LOVE”なんかは、ミュージシャンを呼んで本ちゃんの生演奏をやる前のデモテープを松武さんと作っていたね」

能地「亀田誠治さんとかはそのあとに出てきた世代だから、スタジオワークの世界は〈佐橋さんがいてくれたおかげで自分たちはすごくやりやすくなった〉とおっしゃいますよね」

佐橋「亀ちゃんはそう言ってくれるよね」

 

現場で巻き込まれた〈事件〉の数々

佐橋「でも僕は、現場ではずっと一番下の世代だったわけ。だから、〈今日は若手でメンバーを揃えてみようか〉となると呼ばれて。

今でも覚えているんですけど、スタジオミュージシャンを始めた頃に、レコーディングが終わったあと、インペグ屋さんっていうコーディネーターの方に〈佐橋くん、何時間かかった?〉と聞かれたことがあって。〈2時間です〉と答えたら、〈コンを呼んでいたら1時間で終わったんだけどな~〉なんて言われたんですよ(笑)!」

能地「今剛さん?」

佐橋「そうそう。そういうことを平気で言われていたわけです」

能地「〈俺のチューニングがおかしいのか?〉事件もあったんですよね」

佐橋「その事件は忘れもしない、スタジオミュージシャンとしてそれなりに忙しくなってきた頃、中村哲さんがアレンジで、〈ラララ〉で仮歌が入っていて誰の曲になるのかわからないもののレコーディングでした。

僕も自己流で勉強して現場に慣れてきた頃で、譜面を見たら結構オタマジャクシ(音符)が書いてあったんですね。でも〈大丈夫だ〉と思って、ドラムの山木(秀夫)さんがカウントを出してレコーディングを始めたら、ちゃんと譜面通り弾けた。

そのプレイバックを聴いて哲さんが〈いい感じじゃん〉なんて言っていたら、あるベーシストの方が〈チューニングってどうなってる? おかしいな〉と言いだしたんです。で、もう一回演奏してみても、〈やっぱりチューニングがおかしいぞ〉と言って。その時に気がついたんですよ。ギターがベースとユニゾンだったので、俺のピッチが悪いって言っていることに。そうしたら哲さんが〈そんなことねえじゃん! 佐橋をいじめんなよ! そういうことばっかりやってるから若いやつに嫌われるんだよ!〉と言ってくださって。その方は今でも活躍されている有名なベーシストです(笑)」

会場「(笑)」

佐橋「それをだいぶ経ってからご本人と一緒になった時に〈こんな人に会った〉と伝えたら、〈それは大変だったね~〉なんて言っていて。〈いや、あなたですよ!〉と言ったら、〈そんなことするわけないじゃん!〉と否定していましたね(笑)。

もう一個思い出しちゃった。僕ってバンド時代から、いろんな弦楽器を弾くじゃないですか。エレキもアコギも、なんならマンドリンも弾いていて、それが普通だと思ってたんですけど、80年代半ばまでエレキとアコースティックのギタリストは別の職種だったらしいんです。それがまずびっくりで。

で、ある現場にとっても有名なアコギのスタジオミュージシャンの方がいらして、光栄だなと思って挨拶しにいったら〈ああ、君か、エレキもアコギもやるとかいって俺たちの仕事を奪っているのは〉なんて言われたんです。初対面の一言目がそれですよ(笑)!」

会場「(笑)」

能地「温厚なお人柄で知られる方なんですけど」

佐橋「それで80年代末か90年代初頭に僕が腱鞘炎になっちゃった時、自分がプロデュースした仕事でアコギが弾けなかったので、インペグ屋さんに頼んでその方を呼んでもらったんです。

で、レコーディングのあと、飲みにいったんですね。その時の話をしたら、その方も〈俺なわけがないよ!〉と否定していました。どちらも現役の大変有名なミュージシャンの方ですけどね(笑)!」